『Memento』7号 2002年1月25日、京都部落問題研究センター発行
特別措置法後の部落解放運動―アメリカ黒人運動の苦境に学ぶ―
灘本昌久(京都部落問題研究資料センター)

特措法時代の終焉

 来る3月末日をもって、1969年に成立した同和対策事業特別措置法(およびその延長上にあった地対法、地対財特法)にもとづく同和事業体制が終結する。私が部落問題に取り組みだしたのが、1972年高校1年生の時だったので、この30年間の経験は、特措法時代とほぼ重なることになり、その一時代が一区切りつくと思うと、いささかの感慨がある。
 その感慨というのは、決して否定的なものではない。あれこれ数字をあげれば課題をあげつらうことはできるが、私が間近に見ている京都の同和地区の現状にとって、「差別と貧困に苦しむ」という表現は、過去のものである。「同和事業は、成功裏に終結した」あるいは、「同和行政闘争は勝利した!」と叫んでも、誇大広告の謗〔そし〕りをうけることはないと思う。どれほど細部において課題が残っていようと、被差別マイノリティがここまで向上発展し、差別を解消してきた歩みは、他国にほとんど例を見ない。
 したがって、このたびの特措法時代の終結は、それ自体としては、部落問題の将来にとって悲観すべきことではなく、むしろ更なる前進の好機となりうるものである。従来の部落解放運動は、たとえていうなら、ジャンボジェットに部落大衆をのせて、空中給油を繰り返しながら(法の度重なる延長)、高速で長距離を飛んできたようなものであるが、いつまでも飛びつづけるわけにはいかない。ここらで軟着陸して、健康体をとりもどした人は自転車に分乗し、できれば病弱な人を一人でも乗せて、しっかりと地べたを快走していきたいものである。

特措法後の新しい理念

 ところで、同和事業の終結と部落解放運動の軟着陸は、この3月でうまくいくだろうか。
 1986年に地対協意見具申が出て、政府側からの同和事業打ち切りが明確に示された。当時、すでに同和事業の肥大化は頂点に達しており、部落差別撤廃の見地から見て、本当に必要なのかどうか疑問の施策が数々あったことは事実で、事業の適正化をはかるのは政府や行政として当然の責任であったろうとは思う。しかし、政府側が部落の現状を正確に分析し、自信をもって縮小・廃止の方針を出したのかといえばそうではなく、むしろ、部落解放運動に押しまくられた末に、我慢できなくなって逆襲したようなところがあった。そして、残念なことに部落解放運動の側も、行政闘争・糾弾闘争がもっとも肥大化・硬直化した時代であったので、政府の逆襲に逆・逆襲を企てるような構図になってしまった。それ以後、運動は同和事業の強化継続を求めて部落解放基本法獲得に走り、一方、政府は事業の縮小を進めながらも正面衝突は避け、特措法の継続を繰り返しつつ解放運動の体力消耗、安楽死を画策した。政府・官僚と解放運動の綱引きは、9対1で政府側の勝利に帰し、運動の手には「人権教育啓発推進法」がかろうじて残った。以上が、この10数年間の同和事業・部落解放運動を振り返っての、私の個人的観察である。
 時間が止まったような進歩のない10数年を経て、同和事業は打ち切られようとしている。従来の同和事業を漫然と続けるべきではなく、打ち切りはやむなしとは思うが、機械的清算には反対である。社会を下支えするような仕組みを軽々に放棄するのは危険であり、従来の同和事業の経験と成果をふまえて、敗者を出さないような社会のシステムをもう少し普遍的な形で(=部落など狭い範囲に限ることなく)模索していくべきである。
 そこで、やや迂遠な方法であるが、アメリカにおける人種差別をめぐる論争を紹介し、今後の日本社会にとって、社会的公正を確保するために何に焦点をあてていけばよいかを考える参考に供したい。

アメリカにおける人種問題をめぐる論争

 この30年来、アメリカでは、どういう方策が社会的公正をたもつことになるかということをめぐって、多くの議論が闘わされてきている。その中で、私は著名な黒人社会学者であるウィリアム・ジュリアス・ウィルソンの理論に注目したいと思う。ウィルソンは、都市問題研究で有名なシカゴ大学で24年間研究し、その後ハーバード大学に招かれて現在にいたっている。
 彼を一躍有名にしたのは、1978年に著した『低下する人種の有意性』である。この中でウィルソンが主張したポイントはふたつある。ひとつは、黒人の中に中産階級が登場してきており、彼らは1964年に成立した公民権法およびアファーマティブ・アクション(差別是正のためのマイノリティ優遇政策)でかなりの利益を得たこと。もうひとつは、黒人の中でもとりわけ恵まれない階層である「アンダークラス」(ロークラスのさらに下の最貧困層)が増大しており、この階層に対する政策が肝要であるが、アファーマティブ・アクションのような政策は、アンダークラスの助けにはならないということである。そして、ある個人の経済的社会的境遇を決定する要因として、従来はどの人種に属しているかということが重要であったが、現在はその人種の有意性は低下してきており、生れ落ちた家庭の境遇が恵まれているかどうかという階級(階層)的要因のほうが重要になってきているというものであった。
 これにたいして、黒人運動・研究者からは、中産階級の登場を理由に黒人全体が良くなっているような幻想を振りまくものであり、人種問題の軽視につながるとして、強い反発があったことは以前に紹介したとおりである。(1) 
 その後、ウィルソンは、『本当に不利な立場に置かれた人々』(1987年)、『仕事がなくなるとき』(1996年)と重要な著作を著し、現在に至っている(以下の記述は、基本的に両著におっている)。そうした著作の中で、語られるアンダークラスの生活の悲惨さは、日本社会からは想像を絶するものがある。

モイニハン報告をめぐる論争とその後

 ところで、ウィルソンが指摘しているように、黒人の下層の人々の困難について、実はもっと早くから研究があった。その代表的なものが、ダニエル・パトリック・モイニハンによる調査報告書「黒人家族―国家の行動を必要とする問題」、通称「モイニハン報告」である。彼は、1961年からケネディ、ジョンソン、ニクソン、フォードの4人の大統領のもとで、労働長官特別補佐官や国連大使など重要ポストを歴任し、1976年からは4期連続してニューヨーク州選出の上院議員をつとめ、ハーバード大学で10年以上にわたって貧困・失業問題などを教えた社会政策のエキスパートである。彼は報告書で、「黒人コミュニティは二つに分裂しつつある。すなわち、着実に経済力をつけて、ますます豊かになっていく安定した中産階級と、ばらばらにされて、ますます不利な立場に置かれていく下層階級に分裂しつつある」と分析した。そして、黒人家族が、離婚や別居の増加、女性世帯主と婚外子の増加などにより、崩壊の危機にあることを率直に指摘した。しかし、台頭しつつあった「ブラック・パワー」の黒人運動家やリベラルな研究者の多くは、都市部での黒人の社会病理的現実を指摘すること自体を好まず、人種差別であるとみなして、集中砲火をあびせた。そして、モイニハンが散々に批判される姿をみて、リベラル派は都市中心部のマイノリティ研究から手を引いてしまう。ウィルソンによれば、1970年頃になると、アンダークラスの調査でイデオロギー的批判に晒されない調査といえば、黒人の社会学者が都市中心部の黒人家族・コミュニティの強靭さについて調査したものぐらいしか、存在し得ない状況にまでなったという(『本当に不利な立場に置かれた人々』p.40)そうしている間に、1984年に刊行されたチャールズ・マレーの『地盤喪失』のように、黒人貧困層のかかえる問題を、すべて福祉依存の責任にする保守派の論議が主導権を握るようになる。1980年代は、ほとんど保守派の独壇場となり、反福祉を叫ぶ声がリベラル派を圧倒する。

ウィルソンの孤軍奮闘

 このように、リベラル派が説得力を失って、保守派の議論が横行することにたいして、ウィルソンは孤軍奮闘してきた。彼は、黒人運動やリベラル派が、アンダークラスの存在自体を否定したり、黒人の積極的な点を一面的・恣意的にとりだしてことたれりとする傾向に対して、失業が慢性化している都市中心部に滞留するアンダークラスの黒人たちが、如何に破滅的な生活を余儀なくされているかを指摘する一方、福祉の行き過ぎが、アンダークラスを生み出すもとであるとする保守派の議論にも、都市部における製造業の空洞化こそが、工場労働者として雇用されてきた黒人たちを慢性的失業につきおとしていったもっとも根本的な原因であると反論している。そして、行き過ぎたアファーマティブ・アクションを是正しつつ、保守派の強調する福祉の切捨てにも反対するウィルソンは、「全国民を視野に入れた社会政策」を提案する。彼は、現在の黒人解放運動が、人種差別の問題を中心におくあまり、成長した黒人の中産階級と、慢性的な失業・貧困に苦しむアンダークラスの黒人を、黒人であるということでひとまとめにしてしまっており、そのために、国民的支持をとりつけた対策がとれなくなっていると考えている。そして、それを克服するために、黒人以外の貧困者に対しても同様の効果をもっている政策の必要を強調している。
 ただ、彼の提案は、しばしば日本やドイツあるいはヨーロッパ諸国がモデルとして登場することからもわかるように、とりたてて我々には目新しいものではない。むしろ、失業対策事業による雇用の創出、全員加入の健康保険、保育の充実、都市と郊外をむすぶ自動車によらない公共交通機関の整備など、日本では既に相当充実・完備しているものが多い。こうしたことに無為無策で、今まで放置してきたことのほうがむしろ驚きで、アメリカという国が、如何に都市政策、社会政策の貧しい国かということに呆れてしまう。

日本の将来をみすえて

 では、アメリカが今苦しんでいる都市中心部の衰退、貧困化は、日本にとっては解決済みの問題だろうか。この点は、『仕事がなくなるとき』の「訳者あとがき」でも触れられているように、日本でも深刻化すると見ておいたほうがいいだろう。1970、80年代に、日本の自動車産業、鉄鋼業などが競争力をつけてアメリカの製造業をなぎたおしたように、今や、日本の製造業も韓国、台湾、シンガポールなどの新興工業国・地域の追撃を受けて、急速に空洞化しつつある。また、農業製品でさえ、中国製品が怒涛のごとく流入しようとしている。日本は、ハイテク部門で先頭を走る以外に、こうした経済のグローバル化に対処する道はなく、労働者に高度の教育・技能を要求せざるを得なくなる。そのことは、逆に教育を受けられなかった人たちの貧困化をさらに加速するだろう。また、現在は長期化する不況で、とりあえず先送りされている感があるが、少子高齢化による労働力の不足は、外国人労働力の大量移入を不可避とする。
 こうして考えてみると、アメリカでかなり極端なかたちで進行している、都市の衰退と貧困化は、決してよそ事ではなく、今後日本においても現実に起こってくると考えておいたほうがいいだろう。そして、問題が起こってからそれを是正するのが如何にたいへんなことかは、アメリカでの事態が如実にしめしている。ひとたび失業が蔓延して、コミュニティが崩壊したときは、そこはブラックホールのように様々な問題を引き込んで悪循環に陥ってしまうのである。そうならないように、地域のまとまりを高め、生活困難層の人たちが社会から脱落してしまわないように、我々全体が協力しあう社会をつくっていかなくてはならないだろう。
 そのためにという理由で、従来の同和事業の継続を主張されるむきもあるが、私は、それは不都合だと思っている。従来の同和事業の根底には、部落の貧困は部落差別の結果起こってきているので、一般の貧困とは性質が違うという前提が存在する。そのため、対策を同和地区に限定しており、逆に同和地区住民であるという理由で、生活がそこそこなりたっている人に対してまで、貧困対策を実施してしまうという誤りをおかしてきた。これからは、上に述べたような産業の空洞化や外国製品の流入、それに伴う産業構造の急激な変化など、様々な理由で、生活が成り立ち難くなる人が多くでてくるだろう。当然、その中には同和地区住民も相当数含まれるはずである。そうした人を、広く薄く、そして必要な限りで狭く深く救済し、自立できるように下支えする、新たな仕組みと、新たな理念、新たな運動が必要とされるだろう。

(1) この著作およびそれへの反響については、本誌の前身である京都部落史研究所月報『こぺる』に紹介の文を書いた。また、この著作に比較的詳しく触れた日本語文献としては、大塚秀之氏の論考がある。

〈参考・引用文献〉
Wilson, William Julius. 1978. The Declining Significance of Race: Blacks and Changing American Institutions. 2nd ed. Chicago: University of Chicago Press.
―. 1987. The Truly Disadvantaged: The Inner City, the Underclass, and Public Policy. Chicago: University of Chicago Press. (青木秀男監訳『アメリカのアンダークラス―本当に不利な立場に置かれた人々』明石書店、1999年)
―. 1996. When Work Disappears: The World of the New Urban Poor. New York: Alfred A. Knopf. (川島正樹・竹本友子訳『アメリカ大都市の貧困と差別―仕事がなくなるとき』明石書店、1999年)
大塚秀之『現代アメリカ合衆国論』兵庫部落問題研究所、1992年
灘本昌久「アメリカにおける黒人問題研究の一争点―人種的要因と階級的要因をめぐって」(京都部落史研究所月報『こぺる』102号、1986年6月号)
モイニハン、ダニエル・パトリック『政治家は、未来を告げる声を聞く―病めるアメリカと闘った三十年』社会思想社、1998年)