本の紹介 横井清『中世日本文化史論考』によせて―中世民衆精神史の歩み―
京都部落問題研究資料センター報『Memento』6号、2001.10.25
灘 本 昌 久
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 最近の部落問題をめぐる議論を特徴づけるものは、「ケガレ」への関心の高さだろう。これは、部落解放同盟が1997年5月に開いた第54回大会において、従来の階級闘争理論に基づく綱領を改め、「人権」「共生」などを柱とする新綱領に改定したことと連動している。従来の、「部落差別=支配の道具論」の枠から脱して、もっと民衆の精神のありように関心を向けていこうというわけである。
 しかし、「ケガレ」の問題が運動の理論として認知されたのは、ごく最近のことに属するのだが、一部の部落史研究者の中でははるか昔からいわれてきたことである。その代表的論者というべき人が、ここで紹介する『中世日本文化史論考』(平凡社,2001年6月)の著者でもある横井清氏であることに異論をさしはさむ人は少ないだろう。
 『中世日本文化史論考』の紹介にはいるまえに、まず簡単に氏の研究をふりかえって、読者の学習・研究の参考に供したい。横井氏の主な単著を時代順に挙げれば、次のようになる。

@『中世民衆の生活文化』(東京大学出版会,1975年)
A『東山文化』(教育社,1979年)
B『看聞御記』(そしえて,1979年)
C『下剋上の文化』(東京大学出版会,1980年)
D『現代に生きる中世』(西田書店,1981年)
E『的と胞衣』(平凡社,1988年)
F『光あるうちに』(阿吽社,1990年)
G『花橘をうゑてこそ』(三省堂,1993年)
H『中世日本文化史論考』(平凡社,2001年)

@『中世民衆の生活文化』に収録された「中世における卑賤観の展開とその条件」(初出1962年)では、横井氏は上―下(支配被支配)関係において理解されがちな賤視の問題を、中世における村落共同体の成立とそこからの特定の人の排除、そしてそれをささえる不浄観(ケガレ)、癩者への忌避感まで射程に入れて論じている。また、「中世の触穢思想―民衆史からみた―」(初出1968年)では、今でこそ知られるようになった「触穢」の思想を、部落差別の根幹をなすものとして明解に描き出している。細川涼一氏が『部落史用語辞典』で「歴史学が触穢思想の問題をはじめて正面からとり上げた」論考であると評価するのもうなずけるところである。師岡佑行氏が『戦後部落解放論争史』第2巻で明らかにしているように、林屋辰三郎氏によって切り開かれ,のちに横井氏によって継承されたこうした中世の部落史研究は、政治的に葬り去られるのであるが、今を去る40年も以前に、中世民衆の心的世界が、現在流行のケガレ論をはるかに凌駕する深みにおいて解明されていたことには、ただただ脱帽するしかない。後方を走っていた第二,第三集団が、今やっと、実は自分たちのはるか前方に第一走者である横井氏がいたことに気づきだしているというのが,昨今の状況である。
 この他,@には散所の長者たる「山椒太夫」、山水河原者善阿弥の孫、又四郎の独白「某一心屠家に生まれしを悲しみとす。…」、婆娑羅、洛中洛外図に見る賤民の生活、身体障害など、現在の差別研究につながる様々なテーマが綺羅星のごとく並んでいる。
 部落史研究に直接関わっては,1988年度の毎日出版文化賞にも輝いたE『的と胞衣―中世人の生と死』が重要である。従来、河原者と斃牛馬処理の関係は当然のごとく語られてきているが,ここでは「胞衣納め」すなわち、お産の時に出る胎盤などの処理に、河原者がかかわっている問題をとりあげ、しかも埋めたあとに松を一本植えるという行為の問題を考える。明示的にはしめされていないが、あの世とこの世という境界をはさんでの命のやりとりにかかわる行為として指摘されているように読める。
 ついで、F『光あるうちに』は、その副題「中世文化と部落問題を追って」でもわかるように、氏による部落問題への直接的論及である。詳しくは、この本自体を読んでいただきたいが,たとえば杉田玄白の『蘭学事始』には、日本最初の人体解剖の場面が出てくるが,この時実際に解剖していたのは刑場で働く「穢多の虎松」の祖父である90歳になる「老屠」であるということが指摘されている。この史実は,最近の部落史研究では常識になってきているが、横井氏の指摘による普及が大きく貢献しているものと思う。
 Fにみられる部落問題への直接的な言及もさることながら、氏の歴史研究全体に貫かれている,中世被差別民へのこだわり・関心にはただならぬものを感じさせる。G『花橘をうゑてこそ―京・隠喩息づく都』などは、タイトルからすると一見なんの変哲もない京都と花の物語と思いきや、締めくくりの章で丹生谷哲一氏の文を引きつつ「中世『王権』の理解には『正月に千秋万歳を唱え,重陽に菊を献じてきた中世河原者・散所者の世界のあった』現実は軽視しえない」と結んである。この他、石川恒太郎著『日本浪人史』(西田書店、1980年)に寄せた短い解説にでさえ、中世被差別民は登場する。氏のこだわりの深さが知れようというものである。
 ところで、横井氏の歴史学の方法は独特のものがあり、論を立てたり、体系化を急ぐというよりは、中世民衆の精神世界を「耕す」といった風情がある。また、時として崖ップチへ連れて行かれて,真っ暗な闇をのぞかされるような時もある。しかし、世の中には闇の深さにたじろがされるよりも、崖の高さを計測し報告してほしい人もいるようである。そういう研究者には、氏の作品は「感性的問題提起のオムニバス」(『史学雑誌』86編5号、96ページ)としかうつらないのかもしれない。
 しかし今回上梓された『中世日本文化史論考』を読むと、横井氏の問題提起が決して大雑把な印象批評を繰り返しているわけではなく、厳密な史料の解読に裏付けられた議論の産物であることがわかるだろう。
 たとえば、『興福寺年代記』に出てくる「外嶋」という表記は「小嶋」の誤記・誤認であると多くの専門家によって安易に断定・通説化されていたものが、横井氏の手にかかると、完全な史料の読み違いであることがあぶり出され、このことは『太平記』の作者が「小嶋法師」であるとする推定に大きな疑問符をつけることになって今にいたっている。そして、それにとどまらず、『洞院公定日記』の応安7年(1372)5月3日の条についての解釈では、洞院公定が親しくしていた小嶋法師の死去の知らせをもたらしたのが、通説にいう見貞侍者の使僧ではなく、庭の工事で出入りしていた散所法師ではなかったかとする横井氏の論証を読んでいると、日記の行間の息づかいまで汲みとって史料を解読するその眼力にただ舌を巻くしかないのである。詳しい論証の手続きは同書を紐解かれたいが、読者は、数百年前に書かれたわずか数行の日記からも、これだけのことが見出し得ることに感動するだろう。
 本書あとがきによれば、氏は来春、京都を離れて岡山へ移り住まれる由であるが、今後も中世民衆精神史の旅を続けられることを、一読者として切に願う。また末筆ながら、京都部落史研究所時代からのご厚情にたいして、この場を借りてお礼を申し上げる。
(なだもと まさひさ/京都部落問題研究資料センター所長)