『Memento』5号 2001年10月25日発行
        「部落は顔でわかる」!?
        同和・人権教育の総合学習は啓蒙主義を超えられるか

                        灘本昌久
総合学習のはじまり

 最近、総合学習(あるいは総合的学習)という言葉をよく耳にする。『現代用語の基礎知識』(2001年版)によれば、次のように解説してある。「教科の枠をこえ特定の主題にそって総合的に学習を組織する教育課程・方法。具体的な課題や体験に即して調査や討論などの探求的な活動を発展させ、暗記中心の知育とは異なる生徒の生活や興味に根ざした学習を行うことができる。…」この総合学習が、現在、小学校で週3時間程度、中学校で週2時間程度導入されつつあり、高校でも2003年度の1年生から実施されることになっている。そして、この総合学習の中で、平和教育や環境教育とならんで、同和教育(人権教育)を行なおうという動きがある。
 ともすれば、一方的な正解の押し付けに陥りがちな同和教育のありかたを反省し、生徒自らが主体的に人権・差別問題を考え、教師も生徒の疑問に正面から答えていこうというなら、充分に意味がある。しかし、それは、言うは易く行なうは難しだ。
 私も大学で同和教育を担当し、学生に自由闊達に議論し、自分なりの問題関心をもってもらおうと努力しているのだが、なかなか急所を突いたレポートが出てこない。あるいは、討論しても思い切った議論にならない。もちろん、私の教育技量に問題がある点は認めるが、最大の壁は、人権教育の啓蒙主義=正解注入主義が、学生に染み付いていることである。長いあいだ人権をめぐる「正解」の山に取り囲まれていると、自分なりに疑問を掘り下げて、納得できる答を見出すという道筋をとることができず、先生の教えてくれる正解を消化不良のまま飲み込む癖がついてしまっているようである。

一問一答式入門書の害悪

 この30年来、数々の一問一答式の部落問題の入門書を目にしてきているが、私自身納得できないようなものが多く、まして、それでは一般の人たちを説得できようはずがない。
 たとえば、同和問題をめぐる疑問として、同和関係の公共料金(家賃や浴場)が安いということがよくいわれる。こうした政策を、一問一答式の入門書は、多くの言葉を費やして擁護している。いわく、同和地区の貧困は差別の結果生まれたものであって、その差別を解消するための低家賃であり、ただの低家賃政策ではない。闘いの結果得られた低家賃政策であって、自ら行政と闘っていない一般の人が同じことを要求するのはおかしい、等々。しかし、たとえば、京都市内の同和住宅が建てられたのは、いまだ多くの部落住民が失対労働(日当が240円であったところから、ニコヨンの俗称が生まれた)で貧しかった時期である。それでも、日当の3日分くらいは家賃に払うべきだろう、貧しくともそれが人間としてのプライドだ、として決まったのが月額800円という家賃であった。当時としては、かなりの負担だったと思う。ところがその後、高度経済成長の時期をくぐり、30年以上を経て地区の生活が相当向上したにもかかわらず、家賃徴収の事務費にも足りない低額に据え置かれてきたのは問題で、当初の精神でいえば、2万や3万の家賃を払っていてもおかしくなかったわけである。それが、いつの間にか、安ければ安いほど良い、おいしいことはいいことだ、といった無節操な同和政策になったことは、その後の差別解消に、マイナスに作用した。
 しかし、私の知る同和教育や、大人向けの社会同和教育の場では、多くの場合、今いったような批判は、同和問題への無理解として片付けられてきたように思う。そういう、正解の一方的な押し付けが、総合学習の中で繰り返されるのであれば、仏を作って魂入れずといわなくてはならない。もちろん、同和事業がおおむね終結する事態をむかえて、いまさら低料金を問題にする気遣いはないだろうけれども、差別問題に正面から答える気構えが教えるほうになければ、新たな人権教育も、正解注入式の教育に陥ってしまう危険性は多いにある。

難問を受けて立つ

 人権・差別に関連して、生徒に聞かれても答に窮する難問が数々ある。たとえば、昔よくあった言説に「部落は顔でわかる」というのがある。正解注入型の同和教育では、正解・不正解どころか、設問自体が差別発言として学校中大騒ぎになりかねないところである。しかし、本当に間違いか? 
 この問題については、昔懐かしい思い出がある。学生時代、大学の近くの部落解放同盟の支部で活動していたときに、「部落は顔でわかるか?」について、青年部で話題になったことがあるのだ。そして、10人ほどいた青年部全員が、「顔でわかる」と言い出したのである。そして、そんなはずないと言い張ったのは、私1人だった。がんばる私に、青年たちはさも自慢げな面持ちで、わからないのは素人だと言わんばかりに、「わかる」と言って譲らないのだ。
 今にして思えば、どちらが一概に正しいともいえない。私がいうのは、駅のプラットホームにたくさんの人がいて、その中に数人の部落出身者が、ある人はネクタイをして、ある人はセーターにジーパンをはいて混じっていたら、全員を指摘できるか。それはできないでしょう、ということである。
 しかし、理屈ではそのように否定してみても、青年たちの言うように、部落にはよその人とは違ったある種の特徴、あるいは空気があったことは間違いない。たとえば、東京で狭山裁判の集会などがあって、バスで東京に行くあいだ、高速道路のサービスエリアで集会参加者に遭遇したときに、労働組合などのグループと部落解放同盟の一行とは、あきらかに雰囲気が違う。部落の集団は、若い人は、ヤンキー風のパンチパーマをかけて、肩で風を切って歩いていたり、おっちゃんおばちゃんたちは肉体労働者が多いせいか顔は黒いし、メガネをかけている人は少ない。おまけに、その集団が大声でしゃべったり、下品な冗談を飛ばしたりするもんだから、はた目にはそうとう浮き上がっているのである。というような実態が、青年たちをして「部落は顔でわかる」といわしめたものだったのだろう。(なお今は、部落の青年の風俗はまったく変わってしまい、一般の青少年に溶け込んでしまっている。私の知る京都に限っていえば、「部落は顔ではわからない」という状態である。部落解放センターに出入りする部落の10、20歳代の若い人の表情が、曇りなく明るいのを見て、私はこの30年間の部落と部落をとりまく状況の変化を痛感する。)

抑圧でなく納得を

 青年たちが、こうした体験の中で「部落民は顔でわかる」と思っているのだから、世間も「部落は顔でわかる」と考えて不思議はない。それを、「部落は顔でわかる」というのは差別です、と教えたところで、何の説得力があるだろうか。そこで考えるべきは、どうして顔でわかると感じるかということであり、また見た目が違っている原因をなるほどと納得できるだけの説明ができるかということである。たとえ「部落は顔でわかる」という結論であっても、「う〜ん、なるほど」といえるだけの説得力があれば、差別をなくす役には立つ、と私は思う。それとは逆に、充分説明できないことへの無力感や恐怖感から、教える側が生徒たちの素朴な疑問を抑圧したら、彼らは、差別問題について考えることをやめてしまうだろう。かなり教える側の力量を問われるわけである。
 ちなみに「…顔でわかる?」について、正面から答えようとする試みは、私が活字で見て知るかぎり、西元宗助氏(京都における同和教育の先覚者)の『被差別部落と教育と宗教』(広池学園出版部、1985年、61-63頁)で、わずかになされているにすぎない。氏は、「もし、部落外の人は人相がよくて、同和地区の人は人相が悪いと、こういうのであれば、それは、はななだしき差別偏見であります。だけど、もし、同和地区に人相の険しい人が比較的多いとおっしゃるのであれば、遺憾ながら、それは、あるいはそのような場合があるかも知れぬと思うのであります。」としたうえで、自分のシベリア抑留体験を語り、酷い圧迫が人間の表情を険しいものにすると述べておられる。答の是非はここではおくとしても、違いの存在をみとめ、それに理解可能な説明をしようとされている熱意は伝わってくる。
 最近の同和教育では、部落と部落外は違っていないということを強調しがちであるが、実際には、さまざまな歴史的経過から、違いは存在するのである。最近でこそ、テレビなどのマスコミュニケーションの発達で、日本中が均質化されているけれども、一昔前までは、部落の言葉が近隣の一般地区とは違っていることがよくあったし、相続の習慣や宗教の違いなど、部落外から違った目で見られる実態は、多方面にわたる。そうしたことに目をつぶるのではなく、合理的説明に努力することが重要である。
 ただし、聞く側の腑に落ちるような説明をするのは、なかなか至難のわざである。教える側に、相当の勉強と人間に対する深い理解が必要だろう。私自身、そんなものをいかほども持ち合わせていないので、以上のような問題提起をしてはみるものの、実際にはその困難さに立ちどまってしまう。しかし、総合学習としての人権教育を取り組むつもりならば、従来の悪しき啓蒙主義から脱却しなくてはならない。それができなければ、総合学習に乗り出す意味はない。