そのみちのコラム 2 人権啓発映画はなぜ面白くないか 灘本昌久
財務省印刷局編集・発行『時の法令』 1642号、2001年6月30日

 人権教育における啓蒙主義・正解注入主義の限界を考えるとき、忘れられない思い出がある。今から20年位前、私が学生時代に大学近くの同和地区に足しげく通って、青年部や子ども会の活動をしていた時のことである。その地区の部落解放運動団体のリーダーであるA氏は、家で私とビールを飲みながら世間話をしているきに、こう尋ねた。「なぁナダヤン、君は、部落民の精神的特徴は何やと思う?」唐突な質問に、私は一瞬答をためらった。当時は、「被差別者は、差別されているがゆえに、人の痛みがわかって、人間性が豊かで温かく、互いに助けあって…」という人権業界内での公式の部落民像があった。そういう答を求めているのかと、私が頭の中で自問自答していると、氏は言った。「それはな、猜疑心が強いということや。」私は、「ボロッ」という目から鱗のとれる音が聞こえるくらいの衝撃を受けて、思わずうなってしまった。辞書的にいえば、「猜疑心=人のいうことが素直に受けとれず、何か自分に不利なことをするのではないかと、疑ったりねたんだりすること」である。義務教育も満足に受けられず、土方一本で家族を養ってきたA氏の口から放たれた一撃で、霧の中に霞んでいた私の頭の中は、すっきりと雨上がりの風景のようになった。なるほど、こういう人間観察もあるのかと。確かに、差別されることで自動的に人間性が磨かれたり、人格が陶冶されるくらいなら苦労はないのであって、むしろ厳しい差別の結果、萎縮して卑屈になったり、また劣位に置かれているということへの恐怖や不安がこうじて、「なめられたらあかん」という虚勢につながるのが人間の自然な姿に相違なく、またそれが差別の本当に理不尽なところでもある。想像を絶する逆境の中で、なお凛とした人間性を保つ人がいて、まことに尊敬に値するけれども、それは少数にとどまるか、あるいは例外に属するという他ない。というようなことは、A氏との問答があってのち、ずいぶん長い道のりを経てたどりついた結論だが、いまだにあの言葉を思い出して、その含蓄の深さに脱帽することがたびたびである。もちろん被差別者の人間観察にもピンからキリまであって、A氏のような人ばかりではないが、「被差別者は美しい」などという美辞麗句で喜んでばかりいると思ったら、大間違いだ。
 ところが、よく使われる人権啓発映画には、およそまっとうな人間観察に基づいて作られたものではない種類のストーリーが多い。絵に描いたような極悪な差別者がでてきて、片や善良で純真ムクムクの被差別者が出てくる。そして、これまた絵に描いたような差別事件を起こして、シッタンバッタンの騒動を繰り返した末、差別者が反省懺悔してめでたしめでたし。最近は、多少改善されてきたが、四捨五入して言えば、根本は似たり寄ったりである。こうした善玉悪玉論も、水戸黄門のドラマなら笑って見ていられるのだが、人権啓発映画の場合は、聴衆の大部分が悪玉に組み込まれているので、反感を覚えたり、内心フンと鼻でせせら笑うことになる。また、善意の人は噛まずに丸呑みして、おなかの具合が悪くなる。映画の感想文を書かされる生徒たちにいたっては、いい迷惑ということになってしまう。どのみちこのウソ臭さが人権問題・差別問題理解の障害になることはいうまでもない。そして何よりも、そんな筋書きには、被差別者自身が心の底から納得してはいないのであるから、他の人を感動させ、変える力を期待することはできないのである。
 どうしてこんなことがまかり通るかといえば、原因としてはまず善意とことなかれ主義があげられる。善意とは、被差別者側の弱点や怯懦や影を描くことは、彼らを傷つける悪いことであるという考え方で、それ自体は非難すべきことではない。また、ことなかれ主義は、たとえば、教育映画の発注元である教育委員会などが運動団体をはばかって、当り障りなく作るということであるが、我が身かわいさで行動するのは誰しものことなので、これまた非難はできない。また、ことなかれ主義の背後には、被差別者への批判的まなざしを許容できない被差別者自身の弱さや運動団体の狭量があるが、これも世の中にはありがちなことで、特に誰が飛びぬけて悪いというほどではない。しかし、そうした善意や狭量の総和が膨大なゼロを生み出しつづけるとしたら、やはり悲しむべきことではある。