『毎日新聞』1997年3月14日夕刊、(シリーズ世の中探見―部落差別の現在(6))

                          灘本昌久(京都産業大学講師)

           「差別語といかに向きあうか」

 

 ちかごろ、差別と表現について個人から、あるいは機関・団体から相談を受けることが多くなってきた。「〜は差別表現でしょうか?」「〜は差別語なんですね?」

 こうした現象は、ひとつには社会が人権問題に関心をもってきた証拠として一応はプラスに評価できるだろう。しかし、実際には私が見てもひどいという差別表現の是非を相談されることはまれで、たいがいは、当人には是非が分からないが、差別語・差別表現であるとの指摘があるので心配だと、「お伺いをたてに」こられるのである。

 たとえば、有名なところでは「馬鹿でもチョンでも」のチョンが朝鮮人をさしている差別語だ、という話がある。しかし、この表現は江戸時代に庶民が使っていた言葉で、「チョンまげ」や読点の「チョン」と同根の言葉であって、朝鮮とは何の関係もない。現に、私が大学で教えている朝鮮人学生自身が「自分の父親でも使っている言葉なのに差別とはおかしい」と私に苦情を言いにくるほどである。もちろん、差別的に使われることが皆無とはいえないだろうが、普通の日本語の用法としては例外に属する。

 また、現にある差別をつつきだすのが恐さに、特定の言葉を回避する場合もある。たとえば、杉田玄白が『蘭学事始』の中で述べているように、『解体新書』を翻訳する契機となった人体解剖をしたのは杉田玄白自身ではなく、穢多のおじいさんが解剖をしてみせており、玄白は臓器の名前などをあれこれと教えてもらい、そのおじいさんに感謝と尊敬の念をもったのだが、「穢多」という言葉が出てくるばっかりに、このエピソード自体が葬られる傾向にある。

 こういった気づかいを極端に押し進めると、ついには価値判断を含む言葉の自主規制にまでいたる。知恵遅れの子どもを受け入れているある小学校では、「賢い」という言葉は「知的障害児を持つ保護者を傷つける」という理由で、使わないことにしようという意見が出たそうである。

 しかし、こうした優しさの未来にまっているのは、どんな社会なのだろうか。ふつう病気をなくすためには、衛生状態を高めバイ菌をなくすことに努めると同時に、体を鍛えて病気に対する抵抗力・免疫を強くすることを考えるだろう。けっして、生活領域すべてを完全消毒すべきであるとは誰もいわない。差別もこれと同じで、ありとあらゆる差別や不快感を完全に世の中から洗浄しつくすことは決してできないわけで、侮辱する意図で露骨に差別語を使う場合はともかく、どれほど言葉を制限したところで、差別を連想させることを100パーセント防ぐことはできないし、不可能なことをもとめてもがき苦しむのは、被差別者自身なのである。

 私はこうした「××は差別語であり、被差別者を傷つける」という論法の有害性は、三つあると思う。第一は、ある言葉を用いるときの妥当性や正当性あるいは正義が、自分の外部からしかやってこないということだ。自分がどのような意図でその単語を使ったかということよりも、「この単語の意味はカクカクシカジカである」ということが優越していると、発話者にとって、その単語を用いることの正義は外部に存在するしかない。つまり自分自身の内部で確かめることに道をとざしてしまうのである。有害性の二つめは、被差別者がある言葉で傷つく原因の一半が被差別者自身に内在することを見落とすことである。アメリカ黒人が「ブラック・ピープル」といわれて傷ついた理由のかなりの部分は、「黒い肌はマイナス」という価値観を白人と共有していた自分自身の美意識によるのである。三つめは、反差別運動が安易に差別の証拠の仕入れができてしまうということである。差別反対運動にある程度成果があがると、差別事象は減ってくる。そのとき、なお差別が存在すると言いつのるのに、単語狩りは汲めども尽きぬ証拠物件の泉となる。むろん、そうした運動は退廃する。

 差別語を「なくそう」とする限り、その行動は言葉のデリカシー要求運動に収斂していくしかない。差別語は、「いかに向きあう」か、それが問題だ。