瀬川丑松、テキサスへ行かず
―『破戒』のキーワード「隠す」と「引き受ける」について― (上)
『こぺる』1996年7月号

                                   灘本昌久

   『破戒』との不幸な出会い

 思えば不幸な出会いだった。
 私が高校一、二年生のころ(一九七二、三年)、部落問題を勉強し始めた早い時期に読んだのが、『高校生の部落問題』である。そこには、野間宏による評論「『破戒』について」が掲載されていた。野間氏は、『破戒』を次のように極めて否定的に評価している。「丑松は自分の教える生徒たちの前に土下座して自分の出身を告白し、その後、新天地を求めてテキサスに渡るというのだ。藤村が部落民の問題を人間の問題として、十分考えつくすことができなかったことをあらわにしているのである。『破戒』というのはこのようなことなのだろうか。破戒とは父のさずけた戒の意味を根底からくつがえす心をもって、自らその戒を破り去り、父にそのような封建的な戒をもたらせたもの、不合理な社会にたいするたたかいを宣言することでなければならないのである。テキサスへ新天地を求めるなどというのは、逃げて行くことを示すものにほかならない。/ここにこの小説のもっとも大きな問題点がある。」(1)。
 また、ここに収録されている野間氏の評価にかぎらず、当時の部落解放運動による瀬川丑松に関しての評価は最低で、部落民であることを隠してコソコソ生活する否定的人物像の代表格であった。すでに、当時「丑松思想」なる言葉まで使われ出していて、部落の高校・大学生で組織される全国奨学生集会を報じる部落解放同盟機関紙『解放新聞』でもたびたび「丑松思想を克服しよう!」などというスローガンが繰り返されていた(2)。
 そもそも、『破戒』に関する部落解放運動の正式見解からして、最低の評価である。一九五三年八月、筑摩書房より出版された『現代文学全集』第八巻に『破戒』の初版本が復刊されたのだが、それにたいして一九五四年四月に出された部落解放全国委員会(部落解放同盟の前身)の「『破戒』初版本復元にに関する声明」では、『破戒』は次のように一刀両断にされている。「部落解放全国委員会は『破戒』に対して一つの決定的な評価を持っている。それは日本文学史上における『破戒』の歴史的意義にもかかわらず、藤村の被圧迫部落民に対する差別観の故に、『破戒』が差別小説の域を決して脱していないということである」(3)。
 私は、そうした丑松にたいする否定的評価を特別に疑いもせず受け入れており、『破戒』をまともに読みとおすこともなかった。
 ところが、一九九二年に映画「橋のない川」にかんする評論を書いた際(4)、あわせて『破戒』を通読して驚いた。なんとすばらしい作品! 『破戒』が出て八〇年以上たつが、部落問題をテーマにした作品で『破戒』を凌駕するようなものがあるだろうか。そして、なんと島崎藤村は部落差別の問題をよく知っていて、差別する者とされる者の心の機微をよく心得ているんだろう。また、否定的人物像の代名詞のはずの瀬川丑松という人も、部落差別にたいして実に誠実に向かいあい、凛とした人生を送っている。
 筆者は、文学にはまったく素人であるが、今まで『破戒』にたいする評価として文学評論や部落解放運動の中で語られてきたことが、私の読んだ印象と余りにかけ離れており、また従来の『破戒』にたいする否定的評価が、部落解放に有害だと思えるので、無謀をも省みず、読んだままの感想を書き留めることにする。本来ならば過去の膨大な『破戒』研究を詳細に検討して、自己の見解を述べるべきだとは思うが、生来怠け者の私が過大な目標をたてても、いつになることやら見当もつかないので、作業を始めるにあたっての第一歩をとりあえず本稿でしるさせていただき、大方の批判を仰いで、さらに牛歩の歩みをつづけていくことにしたいと思う。したがって、本稿は、過去の研究とは没交渉になされた一素人の読書感想文の域をでないものであるが、その点ご海容を乞う(5)。

   「我は穢多なり」

 『破戒』を読み出してまず驚かされるのが、主人公瀬川丑松の師と仰ぐ猪子蓮太郎の著書『懺悔録』の書き出しである(十五頁)(6)。

  「我は穢多なり」

 水平社創立に先立つこと一六年、島崎藤村はこのスタンス、この考え方を誰から学んだのだろうか。水平社運動研究史上の常識からいえば、こういう言い方は、米騒動後の一九一八年九月十四日付『紀伊毎日』に掲載された「俺は穢多だ」を嚆矢とし、水平社宣言で明確にされたものである(7)。ところが、『破戒』にはその考え方が猪子蓮太郎の口を通して背骨のように貫徹しているのだ。藤村が『破戒』を書き始めたのが一九〇四年(明治三七)春で、自費出版したのが一九〇六年(明治三九)三月。このころの部落解放運動といえば、一九〇二年に岡山で創立された備作平民会が有名であるが、思想的には部落の生活・風習を改めて世間並みになろうという部落改善運動の域を出ないものであった。また、中江兆民の「新民世界」(一八八八年)や前田三遊の「天下の新平民諸氏に檄す」(一九〇三年)といった自由民権運動から生まれた部落解放論にしても、部落差別への向き合い方は、政治的な自覚を促すということを出ない時代である。そうした段階にあって、「我は穢多なり」と言い切った猪子蓮太郎のセリフを藤村はどうして思いついたのだろうか。

  「隠す」には程遠い丑松

 次に読みすすんで驚かされるのは、丑松の行動が父の戒めである「隠す」とは程遠いことである。
 私の母方の祖母(厳密には私の祖父の後妻に来た人なので、私とは血縁ではないが)は、奈良女子高等師範学校を卒業し、教員をしていた。母から聞いた話によれば、結構いい給料を取っていたそうで、同僚の女子教員と二人で借りていた下宿の家賃を払い、時々観劇や遊びになどいって、悠々と生活できたそうである。しかも、一九〇九年(明治四二)に生まれて大正デモクラシーの空気の中で教育を受け、自由に育ったので、野球のルールは知っているし、ビールも飲むといった、ハイカラな人であった。その祖母は、勤めてそれほどたたぬうちに教員を辞めている。祖母は奈良県天理市の部落寺院の娘として生まれ育った。その祖母が教員を辞めた理由は、縁談を持ちかけられることにいたたまれなくなったからであった。高等師範を卒業して教員になれば、もう適齢期である。まわりの人は、善意で様々な良い縁談を持ってきてくれる。しかし、縁談が進めば身元調査で穢多であることが露見するであろう。そう恐れた祖母は、理由も告げず(当然だが)自由で豊かな生活を断ち切って、私の祖父の後妻となった。師範学校卒業生には、一定年限教職につくことが義務づけられていたが、その年限以前に辞める事へのペナルティーを祖父が支払っている。知性と教養のある祖母の夫となった祖父は、悪人ではないがおよそ文学や芸術とは縁遠い、ただ甲斐性があるだけの部落の商売人である。祖母のそんな経歴を母から聞かされて、私は暗澹たる気分になった。優雅な教員暮らしから、苦労の多い後妻への「転落」。そこまで、自分の人生を切り捨ててでも隠さなければならなかった「素性」。縁談なんぞ、適当に理由をつけて断っておけばいいようなものであるが、「縁談=身分の露見」ということが頭から離れず、それだけがいやさに自分を生かす職を投げ捨ててしまわずにはおけない重圧。それが、私の脳裏に浮かぶ「隠す」である。
 ところが、丑松ときたらどうだ。「隠す」とは似ても似つかぬ行動ばかりしている。
 穢多であると公言してはばからぬ猪子蓮太郎の最新著作『懺悔録』を学校の帰りに買い求る。一頁めが「我は穢多なり」という文句で始まっているその本を、帰りに出会った同僚教員で親友の土屋銀之助に見せろと言われて「『これかね』と丑松は微笑みながら」出して見せる。銀之助は言う「君のは愛読を通り越して崇拝の方だ。ははははは、よく君の話には猪子先生がでるからねえ。さぞかしまた聞かせられることだろうなあ」。「馬鹿言いたまえ」と丑松は笑って本を受け取るのである(十頁)。穢多を公言している猪子蓮太郎を信奉し、彼の思想を支持していると、常日頃同僚に語りかけているのだ。
 また、ある時はこんなふうだ。校庭で、教員や生徒がテニスをしていた。そして、部落民の仙太がラケットを握ったとたん、ダブルスを組む者が出てこず、「少年の群は互いに顔を見合せて、困って立っている仙太を冷笑して喜んだ」。その時、羽織を脱ぎ捨てて仙太に駆け寄ったのが丑松であった。丑松は、まるで差別社会に立ち向かうように、「敗るな、敗るな」と仙太を励まして戦うのである(八二頁)。
 こんなこともあった。丑松の身元が暴露しそうになっているかなり危機的な状況下でのできごとである。丑松が部落民であるという噂をつかんだ同僚教員の勝野文平は、自分の出世の妨げである丑松を追い落とそうと、職員室で丑松にどうして穢多である猪子蓮太郎の著作に興味をもつのかと議論をふっかけた。そして、猪子のことを「空想家だ、夢想家だ――まあ、一種の狂人だ」と冒涜したのである。これを受けた丑松の反論が毅然としていた。以下、やや長文にわたるが、そのやりとりを引用してみる(二七七頁)。

 「むむ、勝野君は巧いことを言った」とこう丑松は言出した。「あの猪子先生なぞは、全く君の言う通り、一種の狂人さ。だって、君、そうじゃないか――世間体の好いような、自分で自分に諂諛うようなことばかり並べて、それを自伝と言って他に吹聴するという今の世の中に、狂人ででも無くて誰が冷汗の出るような懺悔なぞを書こう。あの先生の手から職業を奪取ったのも、ああいう病気に成る程の苦痛を嘗めさせたのも、畢竟この社会だ。その社会の為に涙を流して、満腔の熱情を注いだ著述をしたり、演説をしたりして、筆は折れ舌は爛れるまでも思い焦れているなんて――こんな大白痴が世の中に有ろうか。ははははは。先生の生涯は実に懺悔の生涯さ。空想家と言われたり、夢想家と言われたりして、甘んじてその冷笑を受けている程の懺悔の生涯さ。『どんな苦しい悲しいことが有ろうと、それを女々しく訴えるようなものは大丈夫と言われない。世間の人の睨む通りに睨ませて置いて、黙って狼のように男らしく死ね』――それが先生の主義なんだ。見給え、まあその主義からして、もう狂人染みてるじゃないか。ははははは」

 こう反駁された文平は、伝家の宝刀を抜いた。「猪子蓮太郎だなんて言ったって、高が穢多じゃないか」。ついに出た!「穢多」。身元が露見する危険の迫った極限の状況で、この言葉はいかなる部落民の肺腑をも深くえぐらずにはいない鋭い刃である。しかし、丑松は微動もせずに切り返した。「それが、君、どうした」。文平が続ける。

「あんな下等人種の中から碌なものの出よう筈が無いさ」
「下等人種?」
「卑しい根性を持って、可厭に僻んだようなことばかり言うものが、下等人種で無くて君、何だろう。下手に社会に突出ろうなんて、そんな思想を起すのは、第一大間違いさ。獣皮いじりでもして、神妙に引込んでるのが、丁度あの先生なぞには適当しているんだ」
「ははははは。して見ると、勝野君なぞは開化した高尚な人間で、猪子先生の方は野蛮な下等な人種だと言うのだね。ははははは。僕は今まで、君もあの先生も、同じ人間だとばかり思っていた」
「止せ。止せ」と銀之助は叱るようにして、「そんな議論を為たって、つまらんじゃないか」
「いやつまらなかない」と丑松は聞入れなかった。
「僕は君、これでも真面目なんだよ。まあ、聞き給え――勝野君は今、猪子先生のことを野蛮だ、下等だと言われたが、実際御説の通りだ。こりゃ僕の方が勘違いをしていた。そうだ、あの先生も御説の通りに獣皮いじりでもして、神妙にして引込んでいれば好いのだ。それさえして黙っていれば、あんな病気になぞ罹りはしなかったのだ。その身体のことも忘れて了って、一日も休まずに社会と戦っているなんて――何という狂人の態だろう。噫、開化した高尚な人は、予め金牌を胸に掛ける積りで、教育事業なぞに従事している。野蛮な、下等な人種の悲しさ、猪子先生なぞはそんな成功を夢にも見られない。はじめから野末の露と消える覚悟だ。死を決して人生の戦場に上っているのだ。その慨然とした心意気は――ははははは、悲しいじゃないか、勇ましいじゃないか」

 「何だ――この穢多めが」と文平の目が言うが、二の句が継げないのである。丑松の皮肉の効いた痛烈な反論が文平を圧倒し、彼の卑劣な言動をして、犬の遠吠えたらしめたのである。差別から逃げ隠れしている人間像とは対極にあるではないか。
 この他、穢多であることがばれないために、部落民への誹謗に同調していても不思議でない場面で、丑松は唯の一度もそうした行動に出ていないのである。何を言ったかと同じくらい、何を言わなかったかも重要であろう。

   告白に至るまで

 上に述べたシーンは、今までも勇気ある丑松の行動として指摘されてきているが、そうした場面をも吹き飛ばしてしまうほどに、丑松の土下座シーンは卑屈で、屈辱的な受け取り方をされてきている。丑松が差別に文字どおり膝を屈して謝罪する。そして、テキサスへと逃げていく、と。しかし、私はまったく別の受けとめ方をした。なんと潔い、気高い、内容のある告白か。まさに部落民宣言中の部落民宣言であると。
 ここで、まず告白のシーンに至る丑松の心境の移り変わりをみていこう。
 長野県小諸の向町という部落に生まれた丑松は、警刑吏役の頭の家筋に育った。零落して満六才の頃小県郡に家を移し、さらに姫子沢というところに落ち着いて、叔父夫婦も一緒に移り住んだ。そして、その地の小学校に通うが、誰も丑松を穢多と知る者はなく、丑松も一番早く昔を忘れた(十六頁)。長野師範学校に通いだす頃には、自分が部落民であるという自覚はなく、ただの先祖の昔話くらいにしか考えていなかった。丑松が親元を離れるとき、父は自分が穢多であることを「隠せ」と教えたが、「『阿爺が何を言うか』位に聞流して、唯もう勉強が出来るといいう嬉しさに家を飛出した」のである(十三頁)。

 しかし、『破戒』の冒頭にでてくる大日向の放逐事件で丑松の認識は一変する。丑松が飯山の小学校に赴任していたとき、丑松の下宿に大日向という部落のお金持ちが一時寄宿していた。病気治療のため飯山病院に入院するためである。しかし、入院してまもなく、どこから聞きつけたのか、大日向が穢多であることが発覚し、病院を放り出されて、丑松の下宿に帰ってきたのである。その下宿でも住人たちが騒ぎだし、ついに大日向は下宿からも放逐されてしまう。駕篭に乗って脱出する大日向に、下宿人たちは「ざまあ見やがれ」と悪態をつき、塩をまいた。この時、丑松ははじめて自分の将来に穢多の運命を感じる。「よくまあ自分は平気の平左で、普通の人と同じような量見で、危いとも恐しいとも思わずに通り越して来たものだ」とあきれ、そして「今は自分から隠そうと思うようになった」(十三頁)のである。下宿にいたたまれなくなった丑松は、蓮華寺に転居してしまう。
 ひとたび差別を恐れ、自分の出自を隠そうとすると、心配が心配を呼ぶ。丑松は下宿を替わったことや猪子蓮太郎の著書を吹聴したことまで後悔し、「これから将来を用心しよう。蓮太郎の名――人物――著述――一切、あの先輩に関したことは決して他の前で口に出すまい」「たとえいかなる場合があろうと、大切な戒ばかりは破るまい」と考えるのである(五一頁)。
 しかし、その著作を愛読し、師と仰ぎ、穢多の先輩として慕ってきた猪子蓮太郎への親しみと尊敬の念は止みがたい。この度の最新作『懺悔録』は、「我は穢多なり」という出だしで、「不調和な社会の為に苦しみぬいた懐疑の昔語から、朝空を望むような新しい生涯に入るまで」を描いてあますところがない。大日向放逐事件で小さい時の差別された記憶が蘇ってきた丑松は、一方で猪子の著作にさらに深く感化されるのである。そして、実際に人を介して猪子と会ってみたり、手紙も二、三度交わすのであるが、どうしても自分の素性が打ち明けられない。病気を心配して書いた手紙でもそのことに触れることができず、まるで普通の病気見舞いの手紙のようになってしまった。その文面を見て、丑松は「深く深く良心を偽るような気が」するのである(九一頁)。
 そうこうする間に、丑松の父が、預かっていた種牛に突かれて死んでしまう。その葬儀のために帰った丑松は、二人の人物と出会う。一人は猪子蓮太郎、一人は高柳利三郎である。汽車の中で偶然猪子と出会った丑松は、同行していた市村弁護士や猪子夫人と楽しく語らう。しかし、汽車の中で猪子と別れた丑松の胸には、言い様のない寂しさがこみあげてくる。丑松は、その原因が、自分の素性を打ち明けていないからだと気づき、つぎに出会ったときには、やはり猪子だけには打ち明けようと決意するのである(一〇五頁)。そして、猪子の泊まっている旅館を訪ね、風呂で体を流しあい、食事をともにして、告白を何度も決行しようとするのだが、ついに果たせずに旅館をでる。その時、丑松は自問自答する。「亡父の言葉も有るから」「叔父もああ忠告したから」「誰の耳へ伝わらないとも限らない」から言わなかったのだ。「第一、今の場合、自分は穢多であると考えたく無い、これまでも普通の人間で通って来た、これから将来とても無論普通の人間で通りたい、/種々弁解を考えて見た。/しかし、こういう弁解は、いずれも後から造えて押付けたことで、それだから言えなかったとはどうしても思われない。残念ながら、丑松は自分で自分を欺いているように感じて来た。蓮太郎にまで隠しているということは、実は丑松の良心が許さなかったのである。」(一四〇頁)。
 このあたりの自問と自答の意味深さは今から九〇年も前に書かれたとは思えない、現代的意味のあるセリフである。こうして「猜疑と恐怖とに閉じられて了って、内部の生命は発達ることが出来なかった」。丑松は自分の心を恥じた。再び決意する。「言うべし、言うべし、それが自分の進む道路では有るまいか。こう若々しい生命が丑松を励ますのであった」(一四一頁)。
 次の機会は、父を突き殺した種牛が、屠殺場で処分されるときである。丑松、叔父、猪子、市村弁護士が立ち会う。丑松は、猪子と二人になる時を見計らって、告白しようとするのだが、やはり父の記憶がそれを妨げた。またしても機会を失った丑松は思う。「確実かに、自分には力がある。こう丑松は考えるのであった。しかしその力は内部へ内部へと閉塞って了って、衝いて出て行く道が解らない」。丑松は、自問自答しながら歩きまわる(一六五頁)。
 もう一人の人物高柳利三郎と丑松は葬儀への帰省の車中で出あう。高柳の挙動は、丑松を避けるような不審なものであった。その高柳について、丑松は猪子から意外なことを聞かされる。高柳は代議士に立候補しているのだが、政治家として成り上がっていくために必要な資金を捻り出すため、部落出身の金持ちである六左衛門の娘を密かに娶り、こっそりと祝言をあげるために六左衛門の家にやって来ていたというのだ。猪子は、金のために穢多の娘と結婚して世間をはばかっている高柳と、娘の幸せより権力者と懇意にしたいという虚栄心のために縁談を決める六左衛門が許せず、対立候補の市村弁護士を支援しているのであった(一三八頁)。葬儀をすませて蓮華寺へ帰った丑松を高柳が訪ねてくる。まわりくどい言い方で、自分が穢多の娘と結婚したことを誰にも言わないでくれと懇願してきたのである。丑松は、なんのことか皆目わからないとしらを切り通した。高柳はこれを恨みに思い、秘密が暴露することを恐れ、先手を打って丑松を追放しようと思ったのだろう。すぐに、丑松が穢多ではないかという噂が、勝野文平より広まった。自分の素性が露見することを恐れた丑松は、追いつめられて、ついには大事にしていた猪子の著作を古本屋に売り払ってしまう。しかも自分の蔵書印を注意深く抹消して(二三二頁)。「先生、先生――許して下さい」。「鋭い良心の詰責は、身を衛る余儀なさの弁解と闘って、胸には刺されるような深い深い悲痛を感ずる。丑松は羞じたり、畏れたり」(二三六頁)、苦しみ続けるのである。丑松が穢多ではないかという噂は、いよいよ丑松に迫ってくる。そして、前に述べた「思想家」か「狂人」かの問答がなされ、丑松はその場を毅然たる論争で圧倒したものの、迫り来る重圧のなかで、ついには死をも考えるのである。「唯二つ――放逐か、死か。到底丑松は放逐されて生きている気は無かった。それよりは寧ろ後者の方を択んだ」(二九四頁)。そして、死を覚悟した丑松がたどりついた気持ちがやはり「せめてあの先輩だけに自分のことを話そう」であった。そして、その気持ちを伝えようと、猪子が熱弁を振るう演説会場へと向かった。しかし、あろうことか、猪子は高柳の政略結婚を鋭くついた弁論を終えて帰るところを、高柳の放ったらしい刺客に襲われ、絶命していたのである(三〇〇頁)。丑松は、後悔し慟哭した。

 電報を打って帰る道すがら、丑松は蓮太郎の精神を思いやって、それを自分の身に引比べて見た。さすがに先輩の生涯は男らしい生涯であった。新平民らしい生涯であった。有のままに素性を公言して歩いても、それで人にも用いられ、万許されていた。「我は穢多を恥とせず」――何というまあ壮んな思想だろう。それに比べると自分の今の生涯は――
 その時に成って、始めて丑松も気がついたのである。自分はそれを隠蔽そう隠蔽そうとして、持って生れた自然の性質を銷磨していたのだ。その為に一時も自分を忘れることが出来なかったのだ。思えば今までの生涯は虚偽の生涯であった。自分で自分を欺いていた。ああ――何を思い、何を煩う。「我は穢多なり」と男らしく社会に告白するが好いではないか。こう蓮太郎の死が丑松に教えたのである。(三〇三頁)

 そして、この蓮太郎の死と引き換えに、丑松は生まれ変わる。放逐されてなお生きる道を選んだのである。

 見れば見るほど、聞けば聞くほど、丑松は死んだ先輩に手を引かれて、新しい世界の方へ連れて行かれるような心地がした。告白――それは同じ新平民の先輩にすら躊躇したことで、まして社会の人に自分の素性を暴露そうなぞとは、今日まで思いもよらなかった思想なのである。急に丑松は新しい勇気を掴んだ。どうせ最早今までの自分は死んだものだ。恋も捨てた、名も捨てた――ああ、多くの青年が寝食を忘れる程にあこがれている現世の歓楽、それも穢多の身には何の用が有ろう。一新平民――先輩がそれだ――自分もまたそれで沢山だ。(三〇五頁)

 丑松は告白を決意し、「新しい暁の近いたことを知った」のである。

   土下座は屈服ではない

 ひとたび決意し、身を捨てて生き返ろうとした丑松のまわりには、今までにない空気がみなぎってくる。

 朝は必ず生温い飯に、煮詰った汁と極っていたのが、その日にかぎっては、飯も焚きたての気の立つやつで、汁は又、煮立ったばかりの赤味噌のにおいが甘そうに鼻の端へ来るのであった。小皿には好物の納豆も附いた。その時丑松は膳に向いながら、ともかくもこうして生きながらえ来た今日までを不思議に難有く考えた。(三〇六頁)

 そして、「仮令誰が何と言おうと、今はその戒めを破り棄てる気」になって、「阿爺さん、堪忍して下さい」と繰り返した。
 いよいよ学校に行く時が来た。丑松は『懺悔録』のセリフ「我は穢多なり」を「今更のように新しく感じて、丁度この町の人々に告白するように、その文句を窓のところで繰返した。/「我は穢多なり」/ともう一度繰返して、それから丑松は学校へ行く準備にとりかかった」(三〇九頁)。
 学校に着いた丑松を見て、二、三の女教師がじろじろ見ているが、もう気にとまらない。運動場の片隅で相変わらずさみしそうにしている仙太を抱きしめた丑松は、「誰が見ようと笑おうとそんなことに頓着なく、自然と外部に表れる深い哀憐の情緒を寄せたのである。この不幸な少年も矢張自分と同じ星の下に生れたことを思い浮べた。いつぞやこの少年と一緒に庭球の遊戯をして敗けたことを思い浮べた」(三〇九頁)。

 やっとたどりついた。『破戒』のクライマックス中のクライマックス。多くの人が、惨めだ、卑屈だ、藤村の限界だと罵詈雑言を浴びせてきた告白のシーンである。かなり長文にわたるがそのままの引用をお許し願いたい。

 丑松の眼は輝いて来た。今は我知らず落ちる涙を止めかねたのである。その時、習字やら、図画やら、作文の帳面やらを生徒の手に渡した。中には、朱で点を付けたのもあり、優とか佳とかしたのもあった。または、全く目を通さないのもあった。丑松は先ずその詫から始めて、刪正して遣りたいは遣りたいが、最早それを為る暇が無いということを話し、こうして一緒に稽古を為るのも実は今日限りであるということを話し、自分は今別離を告げる為に是処に立っているということを話した。「皆さんも御存じでしょう」と丑松は噛んで含めるように言った。「この山国に住む人々を分けて見ると、大凡五通りに別れています。それは旧士族と、町の商人と、お百姓と、僧侶と、それからまだ外に穢多という階級があります。御存じでしょう、その穢多は今でも町はずれに一団に成っていて、皆さんの履く麻裏を造ったり、靴や太鼓や三味線等を製えたり、あるものは又お百姓して生活を立てているということを。御存じでしょう、その穢多は御出入と言って、稲を一束ずつ持って、皆さんの父親さんや祖父さんのところへ一年に一度は必ず御機嫌伺いに行きましたことを。御存じでしょう、その穢多が皆さんの御家へ行きますと、土間のところへ手を突いて、特別の茶椀で食物なぞを頂戴して、決して敷居から内部へは一歩も入られなかったことを。皆さんの方から又、用事でもあって穢多の部落へ御出になりますと、煙草は燐寸で喫んで頂いて、御茶は有ましても決して差上げないのが昔からの習慣です。まあ、穢多というものは、それ程卑賤しい階級としてあるのです。もしその穢多がこの教室へやって来て、皆さんに国語や地理を教えるとしましたら、その時皆さんはどう思いますか、皆さんの父親さんや母親さんはどう思いましょうか――実は、私はその卑賤しい穢多の一人です」
 手も足も烈しく慄えて来た。丑松は立っていられないという風で、そこに在る机に身を支えた。さあ、生徒は驚いたの驚かないのじゃない。いずれも顔を揚げたり、口を開いたりして、熱心な眸を注いだのである。
「皆さんも最早十五六――万更世情を知らないという年齢でも有ません。何卒私の言うことを克く記憶えて置いて下さい」と丑松は名残惜しそうに言葉を継いだ。
「これから将来、五年十年と経って、稀に皆さんが小学校時代のことを考えて御覧なさる時に――ああ、あの高等四年の教室で、瀬川という教員に習ったことが有ったッけ――あの穢多の教員が素性を告白けて、別離を述べて行く時に、正月になれば自分等と同じように屠蘇を祝い、天長節が来れば同じように君が代を歌って、蔭ながら自分等の幸福を、出世を祈ると言ったッけ――こう思出して頂きたいのです。私が今こういうことを告白けましたら、定めし皆さんは穢しいという感想を起すでしょう。ああ、仮令私は卑賤しい生れでも、すくなくも皆さんが立派な思想を御持ちなさるように、毎日それを心掛けて教えて上げた積りです。せめてその骨折に免じて、今日までのことは何卒許して下さい」
 こう言って、生徒の机のところへ手を突いて、詫入るように頭を下げた。
「皆さんが御家へ御帰りに成りましたら、何卒父親さんや母親さんに私のことを話して下さい――今まで隠蔽していたのは全く済まなかった、と言って、皆さんの前に手を突いて、こうして告白けたことを話して下さい――全く、私は穢多です、調里です、不浄な人間です」
 とこう添加して言った。
 丑松はまだ詫び足りないと思ったか、二歩三歩退却して、「許して下さい」を言いながら板敷の上へ跪いた。何事かと、後列の方の生徒は急に立上った。一人立ち、二人立ちして、伸しかかって眺めるうちに、この教室に居る生徒は総立に成って、あるものは腰掛の上に登る、あるものは席を離れる、あるものは廊下へ出て声を揚げながら飛んで歩いた。その時大鈴の音が響き渡った。教室々々の戸が開いた。他の組の生徒も教師も一緒になって、波濤のように是方へ押溢れて来た。(三一八頁)

 いったい丑松は誰に詫びているのか。従来、差別社会に膝を屈して、穢多である自分を隠して世間に紛れ込んでいたことを詫びているように解釈されている。しかし、今までの経過でも明らかであろう。蓮太郎の死で目を見開かされた丑松の心境は、穢多という運命を背負った重み、淋しさ、悔しさもまじえながらであるが、それにもまして「死んだ先輩に手を引かれて、新しい世界の方へ連れて行かれるような心地」「急に丑松は新しい勇気を掴んだ」「丑松は新しい暁の近いたことを知った」「こうして生きながらえ来た今日までを不思議に難有く考えた」「小学校の建築物も、今、日をうけた。名残惜しいような気に成って、冷く心地の好い朝の空気を呼吸しながら、ややしばらく眺め入っていた」「平素は何の感想をも起させない高い天井から、四辺の白壁まで、すべて新しく丑松の眼に映った」(三〇五、三〇六、三〇七、三一三頁)というように、次第に高揚し決意をかためていく過程なのである。どうして、差別社会に膝を屈していく人の気持ちが高揚していく必要があるだろうか。確かに、告白シーンの前半は、部落が差別されている状況を淡々と描写し、「私はその卑賎しい穢多の一人です」といっている。さらに、最後には「全く、私は穢多です、調里です、不浄な人間です」とまでだめ押しをしている。だからといって家電製品のマニュアルを読んでいるわけではあるまいし、それを表面的な字句にとらわれて読むべきではない。当然「卑賎しい穢多」などの言葉の頭には「今の社会のものさしでは」というのが省かれているのであり、自分の価値観でいっているのではさらさらない。思い出してみよう。物語りの冒頭で、大日向が放逐され下宿人たちに「不浄だ、不浄だ」と罵られているとき丑松はどうしたか。「『不浄だとは何だ』と丑松は心に憤って」いるではないか(六頁)。また、蓮太郎の感化で「同じ人間でありながら、自分等ばかりそんなに軽蔑される道理が無い、という烈しい意気込を持つように」なっていたではないか(一五頁)。そして、「自分だって社会の一員だ。自分だって他と同じように生きている権利があるのだ」と叫んでいるではないか(六一頁)。
 丑松は確かに詫びている。しかし、決して差別社会にではない。では誰か。ひとつには、ついに自分の素性を打ち明けて支えとなることができなかった蓮太郎に、そしてなによりも自分の生徒たちに。丑松は、生徒たちにはこんなことをいいたかったのだ。「自分は精一杯誠実に生きてきた。あなたたちの幸せを考えて教育してきた。ただ一点、穢多であることを隠して来たことは、自らを貶めることであり、教育者として心から謝罪する。もし自分を不浄で交わることのできない人間だと思ったら、追放するがいい。それも自分がしてきた教育の結果である。甘んじて自分はそれに従おう」と。生徒の罪も自分のいたらなさとして受けとめ、引き受ける。まるで、ゴルゴダの丘でキリストが人類の罪を背負って十字架に架かったように。
 丑松の言う「皆さんも最早十五六――万更世情を知らないという年齢でも有ません。」「すくなくも皆さんが立派な思想を御持ちなさるように、毎日それを心掛けて教えて上げた積りです」というのは、丑松の祈りにも似た生徒たちへの呼びかけである。
 丑松は「春待つ心は有ながらも、猜疑と恐怖とに閉じられて了って、内部の生命は発達ることが出来なかった」(一四一頁)、「確実に、自分には力がある。こう丑松は考えるのであった。しかしその力は内部へ内部へと閉塞って了って、衝いて出て行く道が解らない」(一六五頁)と心の閉塞状況を示す言葉を繰り返している。そして、蓮太郎の死をきっかけに、穢多であることを引き受け向き合うことができるようになった結果、その閉塞状況を打ち破ることができ、「丑松の目は輝いてきた」のである。丑松の告白が終わると「大鈴の音が響き渡った」。この時、「波涛のように…押溢れて来た」(三二〇頁)ものは生徒たちばかりではない。閉ざされていた丑松の未来が溢れてきたのである。

【注】

(1) 一九七三年、解放出版社刊、一〇頁。この文章は、岩波文庫版『破戒』(岩波書店、一九六八年改版)の解題を冒頭の一部を省略して収録したものである。
(2) 『解放新聞』をくってみると、丑松への否定的評価が早くから現れている。一九五一年六月二〇日付けの酒井真右による「破戒の丑松」と題する詩、一九五三年九月一五日付けには「丑松以上の苦しみ―松本さんへの手紙」と題する投書などが早い例である。しかし、「丑松思想」という言い方の登場はかなり遅く、一九七五年十一月二四日の記事で「丑松思想を克服しよう」と言い出したのが早い例である。最も初期の記事である『解放新聞』四号(一九四八年一月一日付)の「破戒と部落解放運動」は『破戒』を時代的限界を斟酌しつつ妥当に評価し「わが解放運動の書記時代には『破戒』を読んだのが動機となつて奮起した同志が少なくない」と積極的に評価している。
(3) 「『破戒』初版本復元にに関する声明」は、部落問題研究所編『部落』五八号、一九五四年十一月、五三五頁、および『藤村全集』第二巻、筑摩書房刊、一九六六年、五三五頁に収録されている。なお、この前後の経緯については、師岡佑行著『戦後部落解放運動論争史』第二巻に詳しい。本稿の趣旨からして、私は「声明」を、いいがかりで無いものねだりの有害文書であると断罪せざるを得ない。差別されて根性がひねくれると、ものごとをここまで歪んで受け取るのかと、世人をして思わしめるに充分である。部落解放同盟が歴史的文書として正式に葬られることを希望する。
(4) 灘本昌久「『橋のない川』上映阻止は正しかったか―今井正版・東陽一版を見て」(部落問題全国交流会編集・発行『第九回部落問題全国交流会報告書』一九九三年)参照。
(5) 『破戒』研究は膨大なものであるが、『部落問題研究』第一一二号に『破戒』特集があり、そこで津田潔氏による詳細な文献目録がある。
(6) 以下、参照の便をはかるため該当の頁数を括弧でくくって掲出しておく。『破戒』の初版本は、日本近代文学館編集・刊行、ほるぷ発売、名著初版本復刻珠玉選、一九八四年、がある。が、入手しやすく、活字が見やすいので、本稿では新潮社文庫の最新版(一九八七年改版、新潮社刊)より引用した。以下同じ。なお、岩波書店からも文庫版が出ているが、漢字を平仮名に直している所が多いので、本稿では採用しなかった。
(7) 部落問題研究所編『水平運動史の研究』第二巻、一〇一頁。

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瀬川丑松、テキサスへ行かず
― 『破戒』のキーワード「隠す」と「引き受ける」について ― (下)

             灘本昌久(京都産業大学)

   大江磯吉の生涯

 この告白シーンに関連して、『破戒』のモデルである大江磯吉について触れておかなくてはならないだろう(8)。大江磯吉は一八六八年(明治一)に長野県下伊那郡伊賀村に穢多の子どもとして生まれた。飯田小学校卒業時には成績優秀で表彰され、わずか一四歳にして同小学校の代用教員として採用されたが、その出身ゆえに排斥を受け一年で放逐された。 磯吉は、それにくじけず、飯田中学校に入学し、一〇キロの道のりを草履に脚絆掛け、粗末な弁当をさげて通学し、一八八五年(明治一八)見事首席で卒業する。さらに難関を突破して長野県立尋常師範学校に入学し、成績優秀につき寄宿費などを官費支給される給付生となった。彼は、一八八六年卒業にあたり模範授業披露の栄誉が与えられている。磯吉は、九月の新学期より諏訪郡平野小学校に赴任するが、たちまち部落民の素性が露見し、同僚や地域社会の排斥によりわずか七日間で追放される。そして長野師範学校にかくまわれるように引き取られた。しかし、一八八八年に東京高等師範学校に入学。一八九一年に首席で卒業するや母校長野師範学校教諭に迎えられる。穢多として追放された大江が、どこに赴任するかは信州教育界の注目するところであったが、彼を陰になり日なたになりしてかばってきた長野師範校長浅岡一が文部省に直談判して迎え、最重要科目「教育学」「心理学」を担当させたのである。しかし、世間の風当たりはやはり強く、この度は、浅岡をけむたがる県有力者たちの反感も増幅させて、政争にも発展しそうであった。磯吉は長野師範を去って一八九三年に大阪府立尋常師範学校教諭となり、ここでも「教育学」「教育心理学」を講じる。磯吉は、この前後に旧士族の娘つまに自分の素性を打ち明けた上で結婚している。大阪時代の彼は教育者としての力量を遺憾なく発揮して、自らの翻訳書を授業に取り入れるなど、意気盛んであった。しかし、ここでも彼の素性はあばかれた。用事で学校に立ち寄った母親の風采・言葉づかいに違和感をいだいた生徒がわざわざ信州にまで身元調査にでかけて、彼の身分を確かめるや、排斥の火の手をあげたのである。磯吉は、自ら志願して今度は鳥取県立尋常師範学校に転出した。彼を呼び寄せたのは、鳥取県教育界最高位にあった師範学校長小早川潔である。彼は長野師範の先輩で、浅岡とも旧知の間柄である。磯吉はこのたびは心に期するところがあったのであろう、教職員・生徒の前で自分の生まれを明かし、堂々と着任したとされている。ここでは六年間勤め、後れをとる鳥取県の教育を近代化するのに多大の貢献をしたが、校長と学校経営をめぐって衝突し、四名の仲間の教員とともに休職を命じられた。それでも磯吉は教育の場を去らなかった。一九〇一年今度は兵庫県立柏原中学校(現柏原高校)二代め校長として赴任し、「理想の学校」をめざして数々の改革に取り組む。しかし、志なかばにして病にたおれ、一九〇二年(明治三五)九月五日、三四歳の若さで亡くなった。
 大江磯吉の経歴は以上のようなものであるが、彼が『破戒』において、長野師範を追われた猪子蓮太郎や穢多であることを告白する丑松のモデルになっていることは、すでに通説となっている。藤村は、大江磯吉の話を聞いて義憤にかられ、彼のことを詳しく取材して『破戒』を書いているのだが、磯吉のことを詳しく聞いた藤村が、丑松に屈辱的で卑屈な告白をさせる必要があるのだろうか。追われても追われても、ついに教師という職を守り通した磯吉。堂々の部落民宣言をして赴任した磯吉。丑松の告白シーンを卑屈にしかとれなかったならば、その丑松像はあまりに大江磯吉とかけはなれたものと言わざるを得ないのである。むろん、モデルと作品の登場人物はおのずと別物ではあるが、丑松は素性を告白する前日「いよいよ明日は、学校へ行って告白けよう。教員仲間にも、生徒にも、話そう。そうだ、それを為るにしても、後々までの笑草なぞには成らないように。なるべく他に迷惑を掛けないように」(三〇五頁)と決心している。これなど、大阪の師範学校を去るときの、磯吉の身の処しようとそっくりなのである。(9)

   師範学校生の参観

 ところで、丑松が生徒たちに告白するその日、小学校には長野師範学校の生徒が二〇人ほど参観のため朝からうろうろしていた。丑松追い落としの作戦をねるために集まっていた郡視学や町会議員が帰ってからも、師範校の生徒は「猶残って午後の授業をも観たい」と残留していた。そして、告白の騒ぎに巻き込まれ、騒然となった教室を見て呆然としているのである。どうして藤村はわざわざ丑松の告白の場面に師範学校の生徒たちを引きとめたのだろうか。長野師範学校といえば、蓮太郎がかつて心理学を講じ、素性がばれて追放されたところである。「いよいよ蓮太郎が身の素性を自白して、多くの校友に別離を告げて行く時、この講師の為に同情の涙を流すものは一人もなかった。蓮太郎は師範校の門を出て、『学問の為の学問』を捨てた」のである(一六頁)。また、先に述べたように、モデルとなった大江磯吉も実際に追放された、あの長野師範学校である。藤村はいいたかったのだろう。「君たちの先輩は磯吉(=蓮太郎)を石もて追うた。諸君はどうするのか。いやしくも教師は、生徒の未来をあずかる職業である。丑松を見よ。生きる意味さえ見失うほどの屈辱と恐怖を味あわされても、なお社会を恨むことなく、ただ教師としての自分の資格を自ら問うているではないか。自分は、強く生きたか? 真っ正直に生きたかと。そして、穢多であることを隠してきた自分の生き方をただ詫びているのだ。君たちは、追放された丑松と同じ教壇に立つことに人として一点の恥じる事なきや」と。藤村が、丑松に卑屈な告白をさせたかったのなら、長野師範の生徒を立ち会わせることなど無用のはずである。このことからしても、丑松が差別社会に屈して懺悔しているなどという解釈はなりたたないのである。

   告白の結果

 こうして、ただ自分の非を詫びる丑松の姿に、まわりはどう反応したか。丑松の生徒たちは丑松の「私はその卑賤しい穢多の一人です」という告白にたいして嫌悪感をしめすどころか「熱心な眸を注いだ」のである。そして、「高等四年の生徒は教室に居残って、日頃慕っている教師の為に相談の会を開いた。未だ初心で、複雑った社会のことは一向解らないものばかりの集合ではあるが、さすが正直なは少年の心、鋭い神経に丑松の心情を汲取って、何とかして引止める工夫をしたいと考えたのである。黙って視ている時では無い、一同揃って校長のところへ歎願に行こう、とこう十六ばかりの級長が言出した」。そして、校長室に押しかけてこう言った。「仮令穢多であろうと、そんなことは厭わん。現に生徒として新平民の子も居る。教師としての新平民に何の不都合があろう。これはもう生徒一同の心からの願いである」。現実の大江磯吉が、生徒に裏切られるように追放されたことにたいし、藤村は「かくあれかし」との気持ちで生徒たちに行動を起こさせたのであろう。また、丑松の前でたびたび差別的な会話をしたり、「あの瀬川君が新平民だなんて、そんなことが有って堪るものか」(二六八頁)としかかばわなかった銀之助が、丑松の告白をまのあたりにして、「どうして世の中はこう思うように成らないものなんでしょう。僕は瀬川君のことを考えると、実際哭きたいような気が起ります。まあ、考えて見て下さい。唯あの男は素性が違うというだけでしょう。それで職業も捨てなければならん、名誉も捨てなければならん――これ程残酷な話が有ましょうか」(三三〇頁)と同情している。安物の同和啓発映画なら、いきなり過去の自分を謝罪でもしかねないところであるが、ただただ変わらぬ友情を淡々と描いているところが、かえって真実味を感じるのである。また、丑松が密かに思いをよせるお志保も、銀之助の問いかけに、丑松への思いが変わらないことを告げ、生涯を誓っている。このように、丑松は告白により世の中全体を敵にまわすかのごとくであるが、もっとも身近な人間関係において、より多くを得たのである。

   瀬川丑松テキサスへ行かず

 さて、ここでやっと本題に近づいてきた。丑松は、告白のあとテキサスへ行ったのだろうか。こんな問いは今さら馬鹿げているように聞こえるだろう。たしかに、例えば新潮文庫版『破戒』のカバーには、「部落出身の教員瀬川丑松は父親から身分を隠せと堅く戒められていたにもかかわらず、同じ宿命を持つ解放運動家、猪子蓮太郎の壮烈な死に心を動かされ、ついに父の戒めを破ってしまう。その結果偽善にみちた社会は丑松を追放し、彼はテキサスをさして旅立つ」とテキサス行きを自明のこととして書いている。しかし、実は『破戒』の結末で、丑松がテキサスに旅立つなどということは、まったく書かれておらず、丑松が東京に出立するところで物語は終わっているのである。
 丑松告白の時からラストシーンまでの経過を追ってみよう。丑松の生徒への素性の告白が、一二月一日の午後一時過ぎ。土屋銀之助は丑松を学校から引き上げさせ、お志保に事態の報告をし、市村弁護士が泊まっている「扇屋」に行った。そこには、蓮太郎未亡人と丑松もいる。市村弁護士は銀之助を部屋の片隅に招いて、「あの蓮太郎の遺骨を護って、一緒に東京へ行って貰いたいがどうだろう――選挙を眼前にひかえさえしなければ、無論自身で随いて行くべきでは有るが、それは未亡人が強いて辞退する。せめてこの際選挙の方に尽力して夫の霊魂を慰めてくれという。聞いて見れば未亡人の志も、尤。いっそこれは丑松を煩したい――一切の費用は自分の方で持つ――是非」(三三六頁)と頼んだ。丑松は、市村弁護士の頼みで未亡人の付き添いをして東京に行くことになったのである。つまり丑松の東京行きは、『破戒』の冒頭で下宿を放逐された大日向が再登場してテキサスへ誘うこととは何ら関係なく決まっていたことを確認しておこう。大日向が再登場しなくても、丑松は東京に行くには行ったのである。
 そして、焼き場から帰ったあと、火鉢を囲んで市村弁護士、銀之助、丑松は話をする。この時、市村弁護士が、約一ヶ月前の一〇月二六日に丑松の下宿から放逐された大日向の話を銀之助と丑松に持ち出す。放逐事件がかえって発奮のきっかけとなって、大日向はテキサスでの農業経営を計画しており、市村は人材の紹介を依頼されているというのである。ここで重要なことは、銀之助は大乗り気であるが、丑松はそれほど心を動かされたわけではないということである。たしかに、「無情い運命も、今は丑松の方へ向いて、微し笑って見せるように成った。…亜米利加の『テキサス』で農業に従事しようという新しい計画は、意外にも市村弁護士の口を通して、丑松の耳に希望を囁いた」(三三七頁)とあり、テキサス行きが丑松の前途に光明をもたらしたかのようにも書いてあるし、銀之助は「見給え――捨てる神あれば、助ける神ありさ」とすすめるのだが、当人にとっては、この話が「枯れ萎れた丑松の心を励して、様子によっては頼んで見よう、働いて見ようという気を起させた」に過ぎないのである(三三八頁)。
 そもそもこのテキサス行きの話は、まだ計画以前の茫漠としたものである。『日本文学鑑賞辞典』には、「大日向の経営するテキサスの農場に新しい天地をもとめてわたっていく」などと書いてあるが(10)、「大日向の経営するテキサスの農場」など存在しない。素直に読めば当たり前なのだが、この計画は、一ヶ月前の放逐事件の時には入院するほどの病人であった大日向が、事件をきっかけに発奮し、丑松が東京に出発するつい二、三週間前に病み上がりで思いついた計画に過ぎないのである。アメリカまでの往復に船で何週間もかかる当時にあっては、いうまでもないことだが大日向はまだ一度もテキサスへ行ってはいない。
 告白の翌々日の一二月三日、丑松たちの一行が東京へ出発する支度をしている「扇屋」へ大日向が市村弁護士に会いにやってきた。大日向がそそくさと市村弁護士との用件をすませて行ってしまおうとしたので、市村はここではじめて大日向に丑松のことを話す。近いうちに東京に行くから丑松にはその時に会おうという大日向を市村がなんとか引きとめて、見送りの人たちの待ち合わせる休茶屋で丑松を紹介する。つまり、丑松が大日向に出会うのは、東京に出発するほんの二、三時間前のことなのである。そして、大日向にたいする丑松の第一印象は「見たところ余り価値の無さそうな――丁度田舎の漢方医者とでも言ったような、平凡な容貌で、これが亜米利加の『テキサス』あたりへ渡って新事業を起そうとする人物とは、いかにしても受取れなかった」という芳しくないものであった。つまり、出発のぎりぎりまで、丑松がテキサスへ行くようなそぶりはないのである。ただ話すうちに「この人の堅実な、引締った、どうやら底の知れないところもある性質を感得くように成った」(三四三頁)のである。この時の大日向と丑松の会話の場面は、こうである。

 大日向は「テキサス」にあるという日本村のことを丑松に語り聞せた。北佐久の地方から出て遠くその日本村へ渡った人々のことを語り聞せた。一人、相応の資産ある家に生れて、東京麻布の中学を卒業した青年も、矢張その渡航者の群に交ったことなぞを語り聞せた。
「へえ、そうでしたか」と大日向は鷹匠町の宿のことを言出して笑った。「貴方も彼処の家に泊っておいででしたか。いや、あの時は酷い熱湯を浴せかけられましたよ。実は、私も、ああいう目に逢わせられたもんですから、それが深因で今度の事業を思立ったような訳なんです。今でこそこうして笑って御話するようなものの、どうしてあの時は――全く、残念に思いましたからなあ」(三四三頁)。

 大日向は、丑松にあれこれとテキサスの話を聞かせるが、これはあくまで伝聞をつたえているに過ぎない。大日向にとって、まだ見ぬテキサスでの事業は海のものとも山のものともつかない段階の話であった。丑松が何も反応しないうちに、大日向は「へえ、そうでしたか」と、例の放逐事件に話を移してしまって、テキサスの話は立ち消えである。これ以後、丑松が東京に出発する物語の最後までテキサスのテの字も出てこないのである。
 それどころか、別れの杯を交わしながら、丑松は銀之助に「いずれ復た東京で逢おう」と熱心にいうのである。この場面は、東京経由でテキサスにさっさと行ってしまう人間の会話とは受け取りにくい。テキサスに行くのなら、「世話になったな、もう会うこともないだろう」とでも言うしかあるまい。さらに丑松は銀之助に「『懺悔録』はいずれ東京へ着いた上、新本を求めて、お志保のところへ送り届けることにしよう」(三四四頁)と約束しているのだが、これも心に期するところがあるからこそのセリフであり、テキサスに「逃亡」するなら、冒頭に「我は穢多なり」などと書いてある本を、恋人に送る必要もないだろう。最後のシーンを素直に読めば、丑松はテキサスへ行くのではなく、単に猪子蓮太郎の遺骨を抱いた未亡人に付き添って、東京に向けて出発するにすぎない。
 藤村は、丑松の未来については何も語っていない。蓮太郎の死をきっかけに自分を偽る生き方を捨てた丑松。それによって、「隠す」という人生に別れを告げ、穢多である自分を真正面から引き受けることにした丑松。ここまで、説得力にとむ筆使いで丑松の懊悩する心を描いてきた藤村であったが、穢多であることを公言した丑松がどうなるのかは書いていない。水平社運動が姿を現わす一六年以前、丑松が小学校にとどまることはむずかしかったに違いない。だから、ともかく学校を去り、さしあたり猪子未亡人を送って東京に行くのである。
 私が思うには、藤村は丑松の将来を読者に問いかけたのではなかろうか。自分に正直に生きようとする部落民はどうすればいいのかと。丑松の生徒への告白を差別社会への屈服と誤解した人が、『破戒』の中に部落民のあるべき姿を無理に探し出そうとして探し出せず、その苛立ちを藤村と丑松に責任転嫁しているのが「テキサス行き」の神話なのである。(11)

 大日向が再登場する意味

 では、丑松がテキサスに行かなかったとすると、大日向が『破戒』の最後にふたたび登場する意味はなんだろうか。従来、大日向が放逐される事件は伏線であり、大日向の真の仕事は、丑松をテキサスに導くことにあると解釈され、その筋立てが唐突で、必然性に欠けるといわれてきている。確かに、大日向の放逐事件が伏線で、テキサスへの誘導が本命ならば、とってつけたような筋書きと言われてもしかたのない面はあるが、それは丑松の告白を卑屈で敗北とマイナスに評価した結果、テキサスへの「逃亡」という思いこみが生まれ、そこから派生した大日向の救世主役という誤解なのである。
 『破戒』における大日向の役割は決定的である。しかし、それは物語りの最後に登場する救世主としてではなく、父親の戒めを軽く考えていた丑松に、部落差別の厳しい現実をたたきつけるための、強烈なはじめの一撃として。その限りにおいて、大日向の役割は、病院・下宿からの非道な追放で果たされていたわけである。しかし、もし大日向が追放されたままで、二度と姿を現わさないような筋書きだと、『破戒』はかなり暗い影を引きずることになる。読者の側からすれば「あの大日向はその後どうなったんだろう。入院先の病院から夕闇に紛れて篭に乗せられ脱出し、さらに下宿からも追われて、なんと気の毒な」と。放逐されて、消息のわからなくなった穢多のお大尽。それでは余りに希望がないではないか。そこで、藤村は再び読者に大日向の元気な姿を見せたかったのだ。「読者のみなさん、心配ご無用。大日向さんは、ほれこのとおり、ひどい扱いに傷ついたものの、すぐに立ち直って新しい人生を歩んでいますよ。おまけに、傷ついた丑松をも励ましています」というような具合である。告白後の丑松を救済しに登場すると考えると、必然性がなかったり、説得力に欠けるとの解釈も成り立つが、迫害にも負けず、たくましく生き続ける部落民像を描くには、大日向のテキサス行き計画もそれなりの役割を果たしているのである。その点、お志保の父であり丑松の同僚でもある風間敬之進が、士族の行く末を暗示するがごとく、アル中で雪の中に野垂れ死に同様に葬られるのとは好対照である。

   全国水平社創立と瀬川丑松

 『破戒』の書かれた当時の状況を考えると、丑松は堂々たる部落民宣言をしたことで十分にその役割を果たしている。あの生徒たちへの語りかけでどれだけ部落の内外の人々の心を揺さぶったか計り知れないと思う。むしろ私は、丑松を敗残者のごとく否定する人に問いたい。「あんたはそれほど立派な人なのか」と。丑松の境遇に置かれて、なお彼以上に勇気を持って誠実に生き抜けるという人がいるなら、是非お目にかかって教えを乞いたいものである。
 ただ、自己の素性を告白して穢多であることを引き受けんとした丑松が、そのまま小学校に留まるのは困難であったに違いない。だから丑松がたとえテキサスに行ってもそれを「逃亡だ、逃避だ」と非難することはできない。私は信州に留まることができなくなった丑松が、テキサスに行こうが他の地で再出発しようが、それを非難する気にはなれない。
 しかし、いままで縷々述べてきたように、物語を素直に読む限りは、丑松がテキサスをめざしているような素振りは、私にはまったく感じられなかった。百歩譲って、丑松がテキサスへ行く可能性を物語が残していたとしても、丑松が東京に行ってからのことはまったく読者の想像の産物であり、丑松が意図していることではないのである。私にとって丑松のテキサス行きなどというのはまったく想像外であり、むしろ現実の全国水平社創立のプロセスのあちこちに丑松と蓮太郎の姿を見てしまうのである。
 水平社創立の四年前、一九一八年の米騒動に部落民が多く参加していたことに驚いた政府や世間は、部落に同情をもって接するべきだと言い始めた。その同情の裏に隠された優越感を見抜いた部落の青年は喝破した。「俺は穢多だ。穢多でたくさんだ」と。(11) こうして穢多であることを引き受けるというスタンスが生まれた。これは、「死んだ先輩に手を引かれて、新しい世界の方へ連れて行かれるような心地」がし、急に「新しい勇気を掴んだ」ときの丑松の発言「一新平民――先輩がそれだ――自分もまたそれで沢山だ」と瓜二つではないか。
 また、水平社宣言の中の「我々がエタを誇り得る時が来たのだ」は猪子の言葉「我は穢多なり」をアレンジして挿入したといえば、妄想に過ぎるだろうか。
 また勝野文平との論争で、丑松は猪子の生涯をさしてこういった。「あの先生の手から職業を奪取ったのも、ああいう病気に成る程の苦痛を嘗めさせたのも、畢竟この社会だ。その社会の為に涙を流して、満腔の熱情を注いだ著述をしたり、演説をしたりして、筆は折れ舌は爛れるまでも思い焦れているなんて――こんな大白痴が世の中に有ろうか」(二七七頁)。自分を差別している社会のために涙を流す。水平社宣言もまた然り。自分たちを差別する社会に一言の恨みもいわず、ただ「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と祈るのである。水平社もまた、猪子同様の大白痴でなくてなんであろうか。

 そういえば蓮太郎はこんなことをいっていた。「まあ、後日新平民のなかに面白い人物でも生れて来て、ああ猪子という男はこんなものを書いたかと、見てくれるような時が有ったら、それでもう僕なぞは満足するんだねぇ。むむ、その踏台さ――それが僕の生涯でもあり、又希望でもあるのだから。」(一三六頁)。

   宣   言

 全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。
 長い間虐められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによつてなされた吾等の為めの運動が、何等の有難い効果を齎らさなかつた事実は、夫等のすべてが吾々によつて、又他の人々によつて毎に人間を冒涜されてゐた罰であつたのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえつて多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは、寧ろ必然である。
 兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であつた。陋劣なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であつたのだ。ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖い人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあつた。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。
 吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。
 吾々は、からなず卑屈なる言葉と怯懦なる行為によつて、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求礼賛するものである。
 水平社は、かくして生れた。
 人の世に熱あれ、人間に光あれ。
   大正十一年三月三日
             全国水平社

【注】
(8) 大江磯吉については、小林郊人「『破戒』のモデル―猪子蓮太郎こと大江磯吉」(『信州及信州人』一九四七年)以来の研究があるが、最近のまとめとしては東栄蔵「『破戒』と部落解放」『国文学』一九八九年三月臨時増刊号、学燈社)を参照のこと。また、大江磯吉が最後につとめた兵庫県立柏原高等学校の荒木謙教諭による決定版ともいえる労作『大江礒吉の生涯』(自費出版、一九九六年)がある。本稿の記述は大部分これに拠っており、ここに記して謝意をあらわす。なお、大江は、二五歳の時に「磯吉」から「礒吉」に改名しているが、本稿では通例呼び慣わされている「磯吉」に統一した。
(9) 注(8)の荒木著、七二頁参照。
(10) 吉田精一編『日本文学鑑賞辞典』、東京堂出版、一九六〇年刊、五四五頁。
(11) 私は、『アンクルトムの小屋』の主人公である奴隷のトムにも丑松と同様の運命を見てしまう。アメリカにおける奴隷廃止の世論を喚起したトムも今や黒人解放運動の中では白人に従順な軟弱黒人の代名詞にされているのだが、物語を素直に読めば、本稿における丑松と同様に、凛として生きた誠実な生涯をそこに見るのである。
(12) 注(7)を参照のこと。

========================== 完 ===========================