新しい差別論のための読書案内

竹田青嗣・小浜逸郎『力への思想』

こぺる刊行会『こぺる』22号、1994年1月

灘本昌久

 本書は、フッサールの現象学をはじめとする現代思想を中心に仕事をされている竹田青嗣氏と、家族・子ども・教育など現代社会(あるいは「現代個人」というべきか)の諸問題につき精力的な評論活動を展開されている小浜逸郎氏の二〇時間におよぶ対談である。

 従来、竹田氏が原理的な問題、小浜氏が実際的問題を中心に仕事をされているが、二人の現代思想、社会状況に関する認識は非常に近い。その共通項の主要な点は、最も強力な社会思想であったマルクス主義を歴史的使命の終わったものとして、徹底的批判をめざしていることである。また、一見マルクス主義を克服するかのように一九八〇年代に日本の思想界を席巻したポスト・モダン思潮にたいしては、思想を知的戯れにおしとどめたものとして、厳しい批判の目をむけている。

 ふたりはまず、一九八〇年代の思想について、次のように考えを進めていく。まず、長い間社会的不公正の問題としてあった富の分配の問題は、八割の人が中流意識をいだくようになったことで大きく比重を低下させ、また「先進資本主義国から、個人は国家や社会に最大限貢献すべきだというモラルの必然性がだんだんなくなって、はじめて『他人を侵害しなければ、自由に自分の欲望を追求してよい』といういわば新しいモラルが、古いモラルを越えてでてきた」「そのことによっていままでの抵抗の概念、反体制の概念を支えていた倫理的根拠がほぼ解体してしまった」。ここに至ってなお、思想の課題を「如何にあるべきか」という倫理的要請から立てるのは、右からであれ左からであれ新しいモラルに対する反動でしかありえないとして、むしろクラシックに対する「ポップの勝利」を積極的に受けとめて、思想の課題を個人の実存から出発させる。「利他的な倫理から出発すると、それは最も不遇な一割か二割の立場から、すべてのことを要求しますね。そういう不遇な立場から残りの立場を批判攻撃するのは思想的には手易い。むしろいろんな利害が錯綜するなかから、どうやって新しい『合意』やルールを導きだすかということのほうが、思想にとってはうんと難しいし、また重要な仕事であるわけです。」

 本書は、そうした立場にたって現代思想の問題を教育や家族や差別の問題に適用していく。差別問題に引きつけていえば、「弱者という記号性にのっかっていさえすれば根拠を失わないんだというような思考パターンではもう全然ダメ」として、最近の反差別運動が迷路にさまよいこんでいる状況に、かなり根本的疑念を表明している。

 たとえば、今の反差別運動は、「ひとつの『全き理想』あるいは『全き義』を立ててその実現を要求する、という考え方の欠陥を」を引きずっており、その欠陥は、「運動の周辺部に罪悪意識を埋め込むというようなかたちでも現われ…同伴者に、たとえば『男性であるということ自体が悪なんだ』とか『自分が日本人であること自体が悪なんだ』というような妙な罪悪感を抱かせるようになる。第一の運動の犠牲者みたいになってしまうんです。」

 また、「当事者がどう思っているかにかかわりなく、実はそれは『差別である』」と超越的な立場から断定する「架空の代弁」、あるいは「告発者と一般の人間の感覚のギャップが埋められないほど大きくなるけれど、その告発者の主張を表向きは誰も反対できない場合、その差別問題自体が一般の人間にとって一種禁じ手に、つまり『触れないほうがいい問題』『触れたくない問題』になってしまう」という「囲い込み状況」、「なにが差別であるかは被差別者の感受からだけからは決定できない、それは差別したとされる人間の行為、言葉と社会状況の関係のなかで規定されるほかない」という「差別の相関主義」など、現代の反差別運動の陥っている否定的傾向についての指摘が新鮮で、『こぺる』での議論とも重なって、納得させられる。

 差別論をしっかりした思想の上に築こうという人には、必読というに十分な価値がある。

(学芸書林、一九九四年九月発行、一八〇〇円)