プロセス重視の差別論議を

特集:差別表現とマスコミタブー、創出版『創』1993年12月号(月刊『創』編集部編『筒井康隆「断筆」をめぐる大論争』創出版、1995年)

                         灘本昌久(京都産業大学講師)

 最近差別と表現に関する議論が活発になってきたせいか、私にもいくつかの雑文を草する機会があり、そこでは主に差別問題の取り扱いが瑣末主義に流れることに異議を唱えてきた。(1) そんな中で特に印象に残るのは、『ちびくろサンボ』絶版事件だ。あの騒動において絶版派は、表面的には岩波書店社長の謝罪を筆頭に各社絶版という「赫々たる」戦果をおさめたにもかかわらず、差別問題をいかに良い方向にもっていくかという観点からあの騒動を評価すれば、得たものは少なかった、あるいは有害無益と言っても過言ではない。そもそも、『ちびくろサンボ』にたいする黒人からの批判が出はじめて四〇年あまりたってなお原作に近い『ちびくろサンボ』が出版されているアメリカやイギリスに対し、原作本(日本では出版されていない)の存在さえあまり知られないうちに論争が終息し、絵本が一掃された日本の状況は、異様としかいいようのないものである。

 そんな中で起こった今回の「断筆」事件に対し、私はまずもって筒井氏に万雷の拍手をおくっておきたいと思う。七月十三日に日本てんかん協会が角川書店への抗議声明を発表して以来の全過程について筒井氏を支持するものではないが、少なくとも差別と表現をめぐってマスメディアを賑わした最近のいくつもの事件の中で、多くの人が謝罪や絶版というあたりさわりのない隠れ家に逃げ込んでいるのにひきくらべ、筒井氏の行動は、「私にもいいたいことがある」と敢えて小雨そぼ降る屋外で傘をさして道行く人にハンドマイクで訴えている風情があり、その姿に何とも心打たれるものがあるのだ。

 ところで、今回の事件に多くの人が言及しているが、そこでなされている議論があまりにも日本てんかん協会と角川書店・筒井康隆氏のあいだで闘わされている議論の内容の是非に集中し過ぎていることに、私はやや不満をいだいている。というのは、てんかん協会と筒井氏のそれぞれの社会的な役割はまったく違っており、両方にとって満足のいく差別・非差別の境界線など「原理的に」ありえないからである。

 つまり、てんかん協会にすれば、てんかん患者は、てんかんの症状だけで苦しんでいるわけではなく、それ以上に社会の病気にたいする誤解や偏見で苦しんでいるのであり、ありとあらゆる手段でその事実を社会に訴えていきたいと考えるだろう。たとえば、学校で使う『保健』の教科書でできるだけ詳しく教えてほしいだろうし、できることなら世の中の人の脳味噌を一人ずつチェックして、てんかんへの誤解をきれいに洗浄してしまいたいにちがいない。当然、小説での表現にもいやおうなく目が行く(もちろん、だからすぐに訂正を要求するかは次の問題だが)。だが、文学を書くほうからすれば、そもそも正しいことを読者に「啓蒙」する道具のような役割を文学に期待されてはたまらないだろう。水野良太郎氏の紹介によれば、アメリカには一九五四年に作られた「アメリカ漫画雑誌協会コード」という基準がある。(2) その数十項目にもおよぶ倫理規定は「警察官、裁判官、政府役人や尊敬されるべき人物につき、確立した権威に対する敬意を損なうような取扱いをしてはならない」「善は常に悪に勝ち、犯罪者は、その誤った行為によって罰せられねばならない」「人物はすべて社会的に受け入れられるような適切な被服をつけて描写されるべきである」「離婚をユーモラスに扱ったり、好ましいものとして表現してはならない」「ラブ・ロマンスのストーリーは家庭の重要さと結婚の神聖さを強調するよう取扱うべきである」等々、ほとんどそれ自体がパロディーかと思うような「正しい」文言で埋め尽くされている。これは、子どもむけのマンガに関するものであり、また現在はザル法同然になっているそうであるが、ともかく「善」や「正義」そして「差別反対」を寄せ集めればこのような辟易する正しさに帰着せざるをえないし、文学の存在する余地はない。個々の反差別論者にすれば、こんな厳しい枠をはめようとは思っておらず、ほんの小さな「お願い」に過ぎないと反論されるかもしれないが、性別役割を植え付けないように、障害者を傷つけないように、片親の子どもを悲しませないようにしていけば、トータルとして上記のような過剰な正しさが支配してしまうのだ。当然、文学に志す人々には体を張ってその存在意義を守ってもらわなくてはならない。

 しかしながら、だからといって文学への反差別の立場からする批判をあらかじめ封じておこうとするのも「原理的に」おかしい。つまり、あることがらが差別であると認識されるのは、さまざまな抗議の積み重ねの力にのみ依存するのであって、けっして差別であることがあらかじめ決まっていて、世間がそれを知らないという訳ではないのである(3)。 あることが差別であるという認識を世の中に「強制する」には、小説などへの攻撃がとりわけ効果絶大である。その点で、筒井康隆氏の断筆宣言(4) の末尾にある「おわりに、強く言う。文化国家の、文化としての小説が、タブーなき言語の聖域となることを望んでやまぬことを。」という一節が、「文学は精神の実験場であり培養土であるので、手を触れないで下さい」といっているのであれば、差別反対運動の立場からはそうは問屋がおろさないと答えておくしかない(もっとも、筒井康隆氏が今そう思っているとは考えないが)。ある社会慣習や社会の認識を差別であるということにするためには、すべての領域で「○○は差別なり!」と叫ぶしかないのである。

 となると、文学の存在意義を固守しようとする作家と、差別問題に力点を置く反差別運動陣営は、まことに非和解的とならざるを得ない。確かにそのとおりなのだが、両者がどこまでも力の限り争い続けたのでは創作する力も、差別をなくす力も消耗し尽くしてしまうので、何かいい方法を考えなくてはならない。そのためには「差別の基準」という何でもはかれる万能の尺度をもとめるのはあきらめて、意見のすりあわせ方をもう少し洗練していくしかない。その際、ともすれば「言論の自由」ということを持ち出しがちであるが、私は「言論の自由」では、この問題の前進はないと思う。「言論の自由」という枠からは暴力によって言論を抑圧しないということ以上のものはでてこない。差別的なことを言う自由もあるしそれを批判する自由もあるだけである。その点、今回の一件で「言論の自由」に抵触する事態はもともと存在しない。

 てんかん協会の行動を「言論の自由」の観点から批判し、ファシズムよばわりする人まででる始末であるが、それはいいがかりというものだろう。今回のてんかん協会の抗議自体は実に穏やかなもので、なんら「言論の自由」に抵触するものではない。ただ、著者を差し置いて出版社に抗議したり、全集の絶版を要求するなどの過去への改竄を要求したり、問題提起の段階で「謝罪」を要求したりした点が、理想的なすりあわせのルールからは逸脱していたというだけだ。それも、人間は感情的動物であることを考えれば、お互い様という程度のものである。また、てんかん協会の行動につき「言葉狩り」であるとの批判もあるが、私には納得できない論旨である。てんかん協会が、「○○という単語を使うな!」といったのなら、それは「言葉狩り」かもしれないが、協会の行なった批判は「てんかん」に関する表現の内容的なものである。

 言葉狩りに反対という点でいうならば、てんかん協会は誰にもまして大きな貢献をしている。それは、「てんかん」という病名が当事者には極めて苦痛な語感をもっているにもかかわらず、その言い換えをきっぱりと正式に否定していることである。私は、以前「部落」を指していう言葉(たとえば「新平民」「特殊部落」「被差別部落」など)の言い替えの歴史につき検討したことがあるが(5) 、部落をはじめ様々な被差別者への呼称が高い頻度で言い換えられていることに比較したとき、「てんかん」の言葉を言い換えずに正面から向かい合おうとされているてんかん協会の凛とした態度には、むしろすがすがしいものを感じるし、これほど「言葉狩り」を拒否している反差別団体はないと思う。部落解放同盟が「日本穢多協会」と名乗っているにも等しいのである。(6)

 紙数も尽き、すりあわせのルールにつき展開する余裕はないが、差別と表現を考えるために、今回の筒井氏の問題提起がよいきっかけになればと思う。これ以上、言葉を封じて事足れりとする傾向と謝れば安全という態度の蜜月は御免被りたい。

 

(1) 径書房編集部編『「ちびくろサンボ」絶版を考える』(一九九〇年)/「差別語といかに向きあうか」(こぺる編集部編『部落の過去・現在・そして…』阿吽社、一九九一年所収)/「『サンボ』を通して差別と言葉を考える」(日本図書館協会『図書館雑誌』、一九九一年五月号)/「部落問題の地理学的研究と地名表記の問題点」(『地理』、1991年1月号、古今書院)/「わらべ歌と差別」(乳幼児発達研究所『はらっぱ』、一九九三年一月号)/「マンガと差別」(現代風俗研究会『現代風俗 93』、一九九三年一月)など。

(2) 水野良太郎著『漫画文化の内幕』河出書房新社、一九九一年、九七頁。また、この倫理規定の成立経過については、木股知史「コミック・キャンペーン」(中河伸俊・永井良和編『子どもというレトリック』青弓社、一九九三年、一三七頁)に詳しい。

(3) というような社会問題の理解は、もう少し説明を要するがここでは省略させていただく。J.I.キツセ他著『社会問題の構築―ラベリング理論をこえて』(マルジュ社、一九九〇年)、ロナルド・J・トロイヤーほか『タバコの社会学―紫煙をめぐる攻防戦』(世界思想社、一九九二年)などを参照されたい。また、こうした社会運動研究の動向については、中河伸俊氏のご教示を得た。

(4) 筒井康隆「笑犬楼よりの眺望」(連載)『噂の真相』一九九三年十月号。

(5) 注(1)「差別語といかに向きあうか」

(6) 日本てんかん協会会長永井勝美「なぜ“日本てんかん協会”なのか」(日本てんかん協会機関誌『波』一九八二年十一月号、二八六頁)参照。「てんかん協会なる看板を美しい名称に変更すれば、多分、もっと大勢の会員が集まることでしょう。しかし、そんな弱い集団で一体どんな運動ができるといえるでしょうか。私達は“日本てんかん協会”と名乗ったからこそ、てんかんという十字架をしっかり背中に縛りつけて、正々堂々と目標に向って運動が展開できるのです」とある。誠に、涙なくしては書き写せない一節である。