映画「橋のない川」上映阻止は正しかったか 今井正版・東陽一版を見て

部落問題全国交流会事務局『第9回部落問題全国交流会報告書』、1993年4月

                                           灘本昌久

はじめに

 

 ここ十年来、少し気になっていたことに、今井正監督による映画「橋のない川」がある。この「橋のない川」の第2部は、差別映画であるとして部落解放同盟や共闘団体が一九七〇年より糾弾闘争、上映阻止闘争を続けており、私も一九七〇年代半ばに2回ほど、この「闘争」に参加していた。どうして、それが心に引っかかってきたかというと、大きな声ではいえないが、実はつい先日まで、私はこの映画を見ていなかったからである。よく見てもいない映画の「上映阻止」などという無茶なことができたものだと今になって思うが、当時は差別映画を上映させるわけにはいかないという一念だった。

 ところが、最近、差別語や差別表現について考えたり発言したりすることが多くなってきてみると、自分のいっているその内容と「橋のない川上映阻止闘争」がどうもかみあわなくなってきた。もっと端的にいうと、「橋のない川上映阻止闘争」は差別と表現をめぐる原理原則から逸脱していたのではないかという思いが強くなってきたのである。

 そうしたおり、一九九〇年に解放同盟が「橋のない川」の再映画化を企画し、この五月二三日に全国の映画館で封切りということになった。封切り三日目、映画館にいった。どうせ一日つぶれるならと、午前中は伊丹十三監督の「ミンボウの女」を見た。直前に、伊丹監督が暴漢に襲われる事件もあってか、平日の午前中だというのに映画館は八割がた席がつまる入りだ。さすが数々のヒットを飛ばし続けている伊丹十三だけあって、面白い作品だった。さて、部落解放同盟が総力をあげてつくった映画の入りや如何に。私にただ券が配られてきただけではなく、嫁さんのパート先である某銀行の出金伝票にもこの解同版「橋のない川」のチケット代があがっていたぐらいなので、いつもの「割当動員」は充分なされているらしい。しかし、チケットをばらまいたから来るとは限らない。多少の心配をしながら午後から映画館にいってみると、以外に観客は多い。「ミンボウの女」にそう見劣りしないぐらいのけっこうな入りだ。

 こうなってくると、映画の出来が急に心配になってくる。がらがらなら出来が悪くてもあまり知られる心配がない。しかし、これだけ映画ファンが混じっている感じだと、例の「人権啓発」まる出しの映画だと困る。あれは、我慢して見るしかないものが多く、自腹を切って足を運び、期待して見たら恨みが残る。

 この映画の出来映えが心配な原因に、前評判が芳しくないことがあった。『部落解放』五月号(三四一号)は「橋のない川」の特集であるが、出演者の談話や試写会参加者の感想が、どことなく奥歯にもののはさまったような誉め方なのだ。普通なら、多少の欠点には目をつむってでもほめあげるのに、そうではない。それに、この映画の関係者である何人かの知り合いも、できを尋ねると苦笑いしたり首をかしげるような表情をする人が多い。しかし、東陽一監督といえばけっこう有名な売れっ子監督である。なんとか見れる映画であってほしい。そんな心配と期待が交錯するうちに、映画が始まった。

 

東陽一監督「橋のない川」

 

 はじまってみると、なかなか出だしは好調、今までの「啓発映画」とは確かに違う。舞台である明治から大正にかけて、厳密にいうと、一九〇八年六月から二二年六月までの奈良県大和高田の部落が美しく再現される。あとで知ったことだが、映画に出てくる部落の藁葺の民家はけっこうなお金を投じての野外セットだった。なかなかの凝りようだ。それに、音楽も普通の「同和啓発映画」なら、悲しいところは悲しいように、怒りがこみ上げるところはこみ上げるように、希望の湧くところは希望の湧いてきたように、ちょっと観客を子ども扱いしているような「指導的」配慮に満ち満ちているのだが、今回の作品はそうした高校映画部的なレベルにはとどまっていない。これもあとで知ったことだが、この音楽を担当したのはエルネスト・カブールというボリビアの音楽家で、その世界ではスーパー・スターのようである。明治の部落とボリビアの民族音楽というのも奇抜な組み合わせであるが、私の個人的感想からすると、この試みは成功したと評価できると思う。

 ところが、映画が進むにつれて欠点がぞろぞろ出てくる。とくに出来の悪かった点は、差別のシーンが出てきても、その時の辛さがまったく表現し切れていないところだ。たとえば、主人公である畑中孝二やその兄誠太郎たちが通う坂田尋常小学校では、地主の息子である佐山仙吉がガキ大将で、日常的に差別をするのだが、描かれているシーンは、単に言葉がうわ滑っているだけで、その言葉が小森部落の子どもたちに突き刺さったり、のしかかるような重みがほとんど感じられない。単に「穢多!」という言葉が連発されているだけなのだ。

 小森部落と本村の差別被差別関係の描き方も浅薄だ。小森の志村かね(加茂さくら)が本村の杉本まちえ(主人公の畑中孝二が思いを寄せている女の子)の家に稲刈りの日雇いに行く。そこで、まちえの母親はいかにも憎々しげな態度でかねに冷淡な態度をとり、休憩時間のお茶は例の欠けた湯呑み茶碗でさしだす。また、仕事が終わって裏口にまわされたかねは、手から直接には給金を渡してもらえず、まちえの父親が木戸の框(かまち)にお金を置いて戸をバタンと閉める。すると、かねは憤然としてお金を懐に突っ込んで立ち去っていく。そのシーンは余りにも毅然としていて苦笑してしまう。まるで、「白毛女」かなにか中国の革命京劇にでもでてきそうな闘士のようでもあり、いじめっ子にいじめられた女の子がプンとして顎を突き出して立ち去るようでもあり、妙に軽いのである。そして、小森に戻ったかねが畑中の家の農作業の場に顔を出して、孝二の祖母であるぬいとかわす会話がふるっている。「おかねはん、日雇いやめたんか?」とぬいが尋ねると、かねは答える。「やめたやめた、あんなとこへ行くよりゃ、なんぼ安うても家で草履作ってたほうがましや」。このセリフで日雇いをめぐるシーンは一件落着である。差別されたときの毅然とした態度といい、差別されたら仕事をさっさとやめる断固たる態度といい、りっぱなものだが、そう簡単に差別に抗議して仕事が辞められるものなら苦労はしないだろう。どんなに差別されても、おいそれと抗議できない、むしろ相手に媚びてでも仕事を続けるしかない追い込められた状況こそ、当時の差別される辛さというものだ(このあたりの評価については、『部落』一九九二年六月号の座談会で論議されているが、まったく同感である)。

 また、部分的な欠点もさることながら、この映画は全体の筋もよくわからず、小学校での差別事件や、小森部落に起こった火事、小森から出稼ぎに行っている志村広吉の生駒トンネルでの事故死、各組の消防団による提灯落としをめぐる差別事件、米騒動、水平社創立などが雑然と並べられている。これは、手法というより、全体の構成力が不足しているためである。子役が成長して青年になると、誰が誰だかわからなくなるのはそのためだろう。また、原作にはない畑中孝二の母ふで(大谷直子)と伊勢田宗則(高橋悦二)とのロマンスがこの映画では重きをなしているが、安物のメロドラマを見せられているようで興ざめである。

 さらに、最後、長島要太郎と峰村七重が祝言をあげる予定の日に要太郎は水平社の活動で逮捕されているのだが、七重は「うち、水平社宣言と結婚するんやもん」といって、屏風一杯に書かれた水平社宣言の前で祝言をあげる。ここまでの筋の運びが拙劣で、まるでスケジュールをこなしているような具合なので、水平社宣言と結婚しますという設定がまったく芝居がかった鼻白むシーンになってしまっている。おまけに、映画のラストシーンは、地面から伸びた双葉が部落解放の新しい息吹を暗示しているという、今時めずらしい安手の隠喩で、ますます気分を白けさせてしまう。

 映画が終わると一瞬真っ白な画面となり、配役はもちろん解放同盟ほか協力団体企業名が下から次々に沸き上がってきて、映画が終わったとわかる。「あれ、これで終わり?」。映画の中に引き込まれる事なく、幕が降りたというのが最後の印象だ。確かに、この映画は今までの同和啓発映画と比べれば、格段の進歩ではある。しかし、それは啓発映画がひどすぎたからに過ぎない。こうなってくると、今井正監督の旧「橋のない川」がますます気になってくる。

 

今井正監督「橋のない川」第一部

 

 タイミングの良いことは起こるもので、今井作品が見たいと思っていたところに、いい機会が訪れた。部落問題研究所主催の第四一回全国部落問題夏期講座で、特別企画として今井版「橋のない川」一・二部が同時上映されることになったのだ。二〇年前の映画二本立てで三五〇〇円は辛いが、この際五〇〇〇円が一万円を払っても見なくてはと夏期講座に参加した。七月三一日の当日は大入りで、会場の本願寺会館は予約が満席の上、当日飛び入りの人が多く、座りきれないほどだ。当時製作にかかわった島田耕氏の話があったのち、いよいよ上映。東陽一作品はカラーだが、今井版は白黒である。カメラが小森部落とそこに暮らす人たちを映し出すと、リアルな感じだ。服の感じから髪の結い方、生活の端々まで当時の農村の貧しい小作人がどんな生活をしていたかが伝わってくる。東版がほとんど貧しさを感じさせないのと比べると、対照的に画面は暗い。

 ストーリーは、早い段階から飲んだくれの永井藤作(伊藤雄之助)が出てきて、畑中ぬい(北林谷栄)とともに、なかなかの存在感だ。これが、問題の永井藤作である。

 しばらく見ていて、東版との違いに気がつく。差別のシーンのリアルさがまったく違うのだ。たとえば、小学校での差別のシーンである。今井版では、こう描かれている。小森部落の近くで陸軍大演習があり、村々には宿泊の割当がある。しかし、小森部落には宿泊の割当はない。そんな中、畑中誠太郎・孝二の母ふで(長山藍子)は少ない食料の中からさつまいもをふかして子どもを連れて差し入れに行く。寒さと飢えの中で兵隊達は感謝の言葉もない。そして、話をしているうちに、ふでの夫進吉が日露戦争で戦死していることを知る。“あぁ、この寒い中差し入れを持ってきてくれるのは、この婦人が戦争未亡人だからだ。そして、この子たちは戦争遺児か。”兵士たちは誠太郎、孝二の頭をなでて感謝の言葉を述べる。ふたりは、兵士たちと心の交流ができて最高の気分だ。次の日、小学校では地主の子佐山仙吉が得意満面だ。軍用の双眼鏡を持ってきて皆にみせびらかし、兵隊を泊めるために寝具は新調しご馳走を準備していたのに、訓練の事情で泊まってもらえなかったのは残念だと、鼻高だかにいいふらしている。そして、「小森はいいな、兵隊さんが泊まらへんから」と悪態をついた。すると、永井藤作の娘しげみが言い返す。「小森は畑中誠太郎たちがさつまいもをふかして差し入れをしたので、結果的になにもしなかった佐山たちよりも上だ」。ところが、仙吉は言い返す。「あの兵隊さんは名古屋師団で、このへんのことは、なんにも知らんからや。もし誠やんが小森の者やいうのわかったら、なんでそんなさつま食うもんか。かわいそうに、負けいくさの兵隊は、とうとうエッタのさつま食いよった。くうさい、くうさい、エッタのさつま食いよった。ははゝゝゝ」。東版では、この差別のシーンを「エッタ」という言葉によりかかって表現しているが、差別される痛みはそんなところにはない。誠太郎のこころの中では“確かにそうだ、自分たちの差し入れたさつまいもを兵隊さんたちはあんなに美味しそうに食べてくれた。しかし、仙吉のいうように、あの兵隊たちが自分たちを「エッタ」だと知ってなお喜んで食べてくれただろうか。そんなはずはない。……”という気持ちがこみ上げていたに違いない。仙吉の指摘した差別の現実の前には、前日の兵隊たちとの楽しい会話も、幻のように粉々にうちくだかれざるを得ない。その差別の現実に、誠太郎・孝二は八つ裂きにされたのである。今井作品は、仙吉の一言が如何に誠太郎たちを深く傷つけたか、その差別の呼吸というべきものを見事に描いている。そして、ここから小森の子どもたちと佐山仙吉たちとのあいだでの乱闘、教師による誠太郎たちへの一方的断罪、祖母ぬい(北林谷栄)の校長への抗議とつながっていく。「わいら生まれてこの方、世間の人からエッタ言うて人間扱いされんと来ましたんや。せやけど、わしらかて人間や。手も二本、足も二本ありまんがな。指かて、見ておくなはれ。せやけど、世間の人はわいらをエッタ言うて、けだもんみたいに言いまんねや。なんぼ自分で直そ思うてもエッタは直せまへん。校長先生、どねしたらエッタが直るんか教えとくなはれ。」当時は、聖域と考えられていただろう職員室に無学文盲の老女が乗り込んで、しかも校長に詰めよるというのは、現実には不可能に近いことであったかもしれないが、北林谷栄の迫真の演技で見るものの心に迫る。このシーンではさすがに胸が熱くなって、涙がこぼれるのを抑えるのに苦労したほどだ。

 また、こんなシーンも今井版はよくできている。地主の佐山家の家の庭には、小作人が年貢を大八車に積んで、続々と運んでくる。ある一般の小作人が、小作料が高いとおずおずと苦情を言う。すると番頭は、小森のもんなら年貢をもう一俵よけいに納めるので、いつでも土地を返せとおどかすと、小作人はぐうの音も出ずに引き下がる。次は、ぬい・ふでたちの番だ。番頭は、「ええ米や」と一言。ここでぬいは、飲んだくれの永井藤作に田を借りてもらってくれと頼まれていたのを思い出す。頼まれた時には、「米の水にでもなるんやろ」と相手にしていなかったが、その場の雰囲気で借りれるかも知れないと思い、藤作への親切心で番頭に頼む。ところが、番頭は憮然として言い放つ。小森の者には土地は貸さない。お前のところは、息子が名誉の戦死やから貸してやっているのだ。だいたい、このあいだ、お前ところの誠太郎が仙吉ぼっちゃんを怪我させたのだ。そんな頼みごとができるとはいい根性だ。うちの旦那さんは、人間ができているから息子に怪我をさせられても田を取り上げるとうようなことを言い出さないのだ。ありがたいと思え。ぬいたちは、孝二が仙吉をなぐったのは仙吉が差別をしたことに原因があると内心怒りを覚えつつも、番頭に謝って引き下がるしかない。このように、「橋のない川」第一部では、差別社会の中で声をあげれない部落民の置かれた立場、行動の必然性が伝わってくる。

 第一部を見終わって、私は妙な興奮を抑えきれなかった。ひとつは、「橋のない川」第一部のできが、あまりによかったからだ。これまで解放運動の中でいいきかされていたことは、第一部は非常にできの悪い映画だが、解放同盟がシナリオをなおし、二部で不十分点を補足することで、ようやく解放同盟の推薦を得られたということだった。ところが、不十分なできどころか、今まで見た数ある部落問題の映画の中では、最高の出来映えだ。東版で今一つ筋の展開が分からなかったことが、今井版で次々とつながっていく。まるで、東版の種明かしを今井版で見ているような具合である。亀井文夫の「人間みな兄弟」や、最近では、小池征人の「人間の街」など、ドキュメントで佳作はあるが、劇映画も全部ひっくるめると、今井正監督に軍配をあげざるを得ない。こうなってくると、二部の差別映画規定もあやしくなってくる。ひょっとして、差別映画だというのはあたっていないのではないか。同じ監督が作って、一部は名作、二部は差別映画というのはどうも合点がいかない。午後からの、二部の上映が待たれた。

 

今井正監督「橋のない川」第二部

 

 こうして、いざ午後からの「橋のない川」第二部をみてみると、案の定だ。ストーリーが展開していく。はたと思いあたるところがあって、頭の中でプレイバック、プレイバック。あれ、これが差別か。ひどいいいがかりやな。そして、またストーリーが進んで、頭の中でプレイバック。終わりに至るまでに、部落解放同盟の「橋のない川第二部 糾弾要綱」で差別だと指摘されている場面があちこちに出てくる。そして、差別だと納得させられるところが、一つもないのだ。そのひとつひとつを検討していくのは煩雑にわたるので、よく知られているところを紹介しておく。

 ひとつは、飲んだくれの永井藤作が列車で席を横取りする話である。どんなに部落民の否定的な像を誇大に描いているのかと思って見ていると、たいしたこともないシーンだ。部落の中でも飲んだくれでだめなやつと見られている藤作が社会の基本的なマナーからはややはずれたことをして、それを同じ小森部落の畑中孝二が「難儀なおっちゃんやなぁ」とたしなめるだけのシーンだ。あのシーンを見て、部落の人はああなんだと思う人は既にそうした部落観をもっているのだろうし、そうでない人には、部落にいる難儀なおっさんの非行にしか過ぎない。あれで、差別意識が増幅したりするような種類のものではない。 この藤作のむすめしげみが畑中孝二に蛇を投げるシーンも同様である。「孝ちゃん、蛇きらいか……うち、好きや。焼いて食べたらうまいで」というセリフはここだけ取り出すと、あるいは不快に感じる人もいるだろうが、ここでは字句どおりに蛇を食べる話にとってはいけない。孝二に好意をいだくしげみが、蛇に驚く孝二をからかうためにわざといっているシーンなのだ。思春期になるかならないかの若い子どもにありがちなほほえましい感情表現ととるのが普通の見方だろう。もっとも、ここあたりこそ実際に映画を見てもらうしかないが。

 しかし、この第二部は、第一部に比べると、同じ今井正が監督した映画とは到底思えないほど出来が悪いことは確かだ。それは、今井氏自身が認めているところだ。本人の弁によれば、もともと三部までの構成だったところ、解放同盟の妨害が厳しくなって、いやいや二部と三部を合体させて製作したという(『今井正全仕事』p.200 )。ことの真偽はともかく、確かに芝居がかったところが多く、一部の隅々まで神経の行き届いたリアルな表現とは大違いだ。しかし、それでも凡百の同和映画からみれば、やはりよくできていることには違いない。

 

東作品と今井作品の違いはどこから生まれてきたか

 

 映画の細かい比較はこれぐらいにして、両作品にたいする感想のまとめに移ろう。東作品に幻滅し、今井作品に感動したその違いはどこから生まれてきたかを考える。一般的にいえば、今井監督の作品は「ひめゆりの塔」などの延長にあるクラシックなリアリズムの世界で、今の目から見れば古くさいかもしれない。しかし、住井すゑの原作と今井の社会主義リアリズムはマッチしている。そして、なによりも今井氏にはこの映画を作る動機があったということを強く感じる。島田耕氏によれば、「今井さんは、『橋のない川』の原作が刊行されるとすぐ読み映画化で動き出す(一九六一年)。大手映画会社にも提案するが実現できず、住井さん、今井さんに八木保太郎さんなどで『橋のない川』の製作をする会をつくり協力を呼びかける」(「今井正監督と『橋のない川』のこと」『部落』一九九二年六月号)。今井正版は、今井氏自身の発案と甲斐性で作られたもので、その動機は、社会派の映画監督として、部落問題という当時の日本社会では深刻かつ重要な課題を自分の手で映画にしたいと心から思ったのだろう。作品の端々に、いわゆる「差別に対する怒り」と義憤が感じられるのはそのためだ。ついでながら、永井藤作役の伊藤雄之助は、第一部を撮影する前年の一九六八年に脳溢血で下半身不随になっていたが、撮影には病院から通っての熱演だ。彼のカムバックはこの映画でなった。

 一方、東監督は、部落解放同盟の発案に基づいて山上徹二郎プロデューサーから依頼されたときには、まだ原作を読んでいなかった。引き受けるのは原作を読んでからということで、読んで感動し快諾することになる。しかし、映画製作の途中「田植えしたばかりの田んぼを背景にして、もう秋ですねえという会話を撮れというようなことなら自分にはできないから、監督を交代させるしかない」という話が東氏自身によって語られている(『シナリオ 橋のない川』p.155 )。もちろん、このこと自体を批判しようというわけではない。自分の意に反した映画づくりはする必要がない。また、映画製作全体の経過のなかでは、東氏が最大限の努力を払われただろうことは充分に認識し、評価するのにやぶさかではない。しかし、いかにも雇われマダムの感は否めない。はいつくばってでも作り上げたいという今井氏とは、やはり創作動機の点で異なっていたといわざるを得ない。

 ただ、東氏の名誉のためにいっておけば、映画のできばえの違いは、単に二人の創作動機に帰せられるべきものではないだろう。時代が作らせたという面もあると思う。今井氏の時代は、社会主義リアリズムがまだ現実と切り結べた最後の時代だった。それを今ここで乗り越える作品を作れというのは土台無理というものだ。東氏に「橋のない川」を撮れというのは、三里塚闘争の映画を撮り続けた小川プロにゴジラを撮らせるようなもので、ミスマッチというしかない。どうせなら、現代の部落の若い人の生活を淡々と描くような作品を作った方が、東監督の力を生かせたのではないだろうか。

 

阻止闘争の真の動機はなにか?

 

 ところで、第一部を見たときに、あまりに想像とちがって、よくできているのでびっくりしたという話はした。すると、ここで大きな問題が生じる。今井氏の証言では、第一部に関するクレームが解放同盟からつけられ、解放同盟に近かった依田義賢氏が書き直したが、実際には今井氏はそれを無視して、自分の思っていたようにやりとおしている。その結果できたものが、あれだけのできばえであれば、解放同盟がつけたクレームに問題はありはしないか。今井氏が『赤旗』一九七四年一二月一二日付けに発表した「芸術家の良心は暴力ではふみにじれない―映画「橋のない川」製作の事実経過」(『差別用語』汐文社、一九七五)によれば、朝田善之助氏のクレームのつけかたは「この学校での場面では、部落民全部が学校に押しかけ糾弾し、校長たちをクビにしてしまえ。このシーンもなまぬるい、部落民全体が押し寄せ、村長、警察署長、村のボスども全部に土下座させてあやまらせろ」という調子だったそうだ。今井氏の証言は、当事者なので多少の誇張や記憶違いがあっても不思議はないにしても(私自身は、朝田氏のクレームはあんなことだったのだろうとは思うが)もしクレームを受け入れた内容の映画ができていたら、まったくの駄作になっていた訳だ。ならば、今井氏が面従腹背的態度をとっていたとしても、一概に背信行為と非難する訳にはいかないだろう。

 

 この一部二部より、できの悪い映画は掃いて捨てるほどある、むしろ、これを越える映画が見あたらない状況で、この映画の製作を妨害し、上映を阻止する理由は、普通にはみあたらない。やはり、当時激化していた共産党と解放同盟の対立が主要な原因と見なさざるを得ないのである。そうなると、この映画が本当に差別をまき散らすものだと考えて、阻止闘争をしたことは、まったく徒労であったわけだ。映画を見てそう思う。あの映画に不満のある人がいても不思議はないが、上映を阻止しなければならない理由はみあたらない。『「橋のない川」第二部 糾弾要綱 七〇年六月』に書いてある批判など、反共産党という動機をはずして、すべての作品に平等に当てはめるべき基準として読むと、とても論評するに値するしろものではない。あんな基準にパスする映画など、あったとすれば安物の革命演劇ぐらいのものである。

 では、今になってみればまったく無意味な闘争に、どうして多くの人が参加したのだろうか。そして、自分で見もしない映画を批判できたのだろうか。上映阻止闘争に、解放同盟以上の情熱を燃やした共闘関係者(その多くは新左翼系セクトである)はどうか。これは、自分でもよくわかる。一九七三年高校二年の時からしばらくセクトで活動をしていた経験からいうと、共闘の側の動機も、まったくの反日共である。共産党は、革命を歪め、人民を裏切った奴らだ。そして、彼らの差し金で動いている日共系の映画監督である今井に良い映画が撮れるはずはない。映画は見てみなければわからないなどというのは日和味主義である。部落解放運動を我が革命的潮流に獲得するために、断固闘わねばならない、とまぁこういう乗りである。映画の中身から出発しているのではないから、軌道の修正のしようもない。ただ、倒すべき敵があるだけである。(もっとも新左翼の反日共的心情はともかく、部落解放同盟が反共産党にこりかたまった点には、共産党自身にも大いに反省すべき点があることは事実である。特に一九七四年ごろから始まった第二期の「橋のない川」上映運動は、部落解放のためというより、解放同盟挑発の道具という臭いが強くするのである)。

 

啓発とリアリズム

 

 こうした、組織同士の敵対感情とは別に、もうひとつ「橋のない川」上映闘争を支えていたものに、解放運動の揚げていた表現・文学に関する理論がある。

 従来、部落解放同盟の主張していたことは、被差別の実態をそのまま描いてはいけない、描くとしたら、否定的な現実を描くと同時に、それが闘いを通じて克服されていくように表現せよ、ということであった。部落差別の暗い側面を描くにあたっても、闘いを描いて、未来への展望をさし示さなくてはいけないわけだ。しかし、本当に部落の否定的な面や、否定的な人物像をリアルに描いたら、差別につながるのだろうか。私は、今井版に登場してくる永井藤作の描き方を見て、そうではないと感じた。否定的な人物像を描くときに、見る人がなるほどと思えるほどにリアルであれば、闘争への立ち上がりなどで埋め合わせをしなくても、その人物への共感は心にわいてくるのではないだろうか。また、個人にのしかかった重圧がリアルに描かれていれば、否定的人物による「非行」の原因も、けっして個人の責任にのみ還元されるわけではないことがよくわかる。今井版などまだまだ革命的ロマンティシズムの臭いの濃厚な表現であるが、啓発映画にありがちな妙な説明や言い訳のないぶん、差別問題への心からの理解につながるものがある。(そういった点で、今まで部落の暗さをストレートに描いた廉で批判されてきた高橋和巳の「貧者の舞」や小田実の「冷え物」なども、別の評価がなされてもよいのではないかと思う。

 

おわりに

 

 思いこみにもとづく闘争は、今から振り返ると空恐ろしいものがある。自分で見たこともない映画の阻止闘争。今思い返せばまったく恥じいるばかりである。あの映画製作にあたられた今井監督や俳優その他スタッフのかたには深くおわびする。また、あの闘争の論理がその後差別問題をわかりにくくした大きな原因となっていたことにつき、責任を痛感している。

 こんなに獲得すべき目標のない闘争もめずらしい。闘争には行き過ぎややり足らないことはしばしばで、思い出してもはずかしいことはままあるが、たいがいは、闘争の根っこはあるものだ。ところが、この上映阻止闘争は、それがみあたらない。もちろん、この映画に批判的な見解があるのは否定しないが、その人の意見が私の抱いた感想より優位にあるという理由はまったくみあたらない。むしろ今井作品への製作妨害や上映阻止がなく、第一部の調子で三部までとおせていたら、どんなにいい映画になったかと思うと、痛恨の極みである。後悔先にたたずとはよくいったものだ。

 ところで、古い闘争を今ごろほじくってなんになるといぶかる向きもあるかもしれない。確かに、あの上映阻止闘争なるものが、まったく過去のものになっているなら、私もここで饒舌をふるうまでもない。しかし、「橋のない川」上映阻止で唱えられた批判の論点は、無批判に継承されているというのが実際のところではないだろうか。とくに、差別的作品・表現は一般の人の目に触れさせてはいけない、しかもその基準を作り、あてはまるかどうかを判断する決定権をもつのが反差別運動団体であるという思いこみは、非常に危険かつ有害なものである。たしかに、社会運動の運動方針といったものは、二者択一に書くことをを免れないところがあるにしてもこと、表現行為・文学作品については、基本的には世に問うて、多くの人の批判を仰ぐしかないものである。「客観的には差別の助長拡大する」という意見も、意見として訴えかけるべきもので、最後的結論として人に押しつけるようなものではない。また、なされる批判も、組織の対立などに起因する短命な理論から安易に演繹されるべきものではない。

 この一文を読まれた読者諸氏のひとりでも多くが、今井版・東版「橋のない川」を見られ、何事かを「禁止」するのではなく、差別問題を深く描いた作品の「創造」に関心をもたれるならば、私の恥じ多き個人的体験をさらしたことも無駄ではないかもしれない。