「サンボ」を通して差別と言葉を考える
日本図書館協会『図書館雑誌』810号、1991年5月 

灘本昌久

はじめに

 

 私に与えられたテーマは、今回の『ちびくろサンボ』問題を差別問題の観点から論じるということである。私は元来部落問題の研究、主に歴史研究で禄を食んできたので、児童文学や絵本については門外漢である。しかし、このサンボ問題には、1988年夏に問題提起があって以来重大な関心をもってきた。というのは、現在部落問題を考えようとする人にとってはサンボ問題で陥っているのとまったく同様の難題が立ちはだかっているからである。一言でいうと、世の中にあまりにも多くの差別語が存在しており、それをどう扱えばいいのか見当がつかないということだ。あらゆる表現行為から差別語を消し去ろうとすれば際限がないようであり、かといって「差別語」はないというのも現に感じる言葉の不快感とはかけ離れた結論に思える。差別語だけでなく、差別的なイメージ、ステレオタイプなども同様の難問だ。出版や表現にかかわる人たちにとってはとくに最近もちあがったやっかいな問題だろう。ここでは、「サンボ」を通して差別と言葉の難問を解く糸口にしたい。

 

1 部落差別と表現―島崎藤村『破戒』の歩み

 

 部落問題を語る際に、「私は藤村の『破戒』で部落問題を知りました」といっても、とがめだてする人はほとんどいないだろう。確かに、部落問題を扱った文学が少ない中で、この『破戒』を越える文学作品はそう簡単には見あたらない。現在、多くの出版社から上製本や文庫本などさまざまな形で出版されているのも『破戒』の文学的価値がそうさせているのであろう。しかし、この『破戒』も好意的評価をうけつづけていたわけではなく、1906年の出版以来、絶版や改訂、再刊とたびたびの波乱を経験している。

 『破戒』は、1906年に自費出版され、16年後の1922年に『藤村全集』第3巻として刊行。さらに、1929年に新潮社より刊行されたが、関東水平社(部落解放団体であった全国水平社から分かれたグループ)の糾弾により絶版となった。その後、藤村と全国水平社との話合いが行なわれ、1939年に大幅な改訂を加えて新潮社より再刊されている。そして、戦後の1953年に再び初版本に復して筑摩書房より刊行された。1)

 この絶版や改訂がなぜなされたのかについては、関係者の証言自体が分かれていて必ずしもさだかではない。ただ、ここで押さえておきたいことは、部落民団体の抗議により戦前に一度は完全に絶版になったこと、および戦後筑摩書房が復刊したことに対してだされた部落解放全国委員会(現在の部落解放同盟の前身)による「『破戒』初版本復原に関する声明」でも、「日本文学史上における『破戒』の歴史的意義にもかかわらず、藤村の被圧迫部落民に対する差別観の故に、『破戒』が差別小説の域を決して脱していない」と極めて否定的評価がなされ、現在までその評価を引きずっているということである。戦前、抗議の対象となった理由はおもには、「穢多」「新平民」などの差別語が多用されていることであり、戦後の否定的評価は、主人公の丑松が生徒に部落民であることを隠していたことを土下座してわびたり、テキサスへ逃避してしまうストーリーが卑屈であるといったことであるが、ともかく文学研究者や一般的読者の高い評価にもかかわらず、被差別者の側では否定的評価が先行している。

 では、この『破戒』は出版された当初から部落民により批判されていたのであろうか。確かに、部落問題自体を正面にだした小説に違和感や不快感をいだいた部落民がいたであろうことは容易に察しがつくが、私はむしろ出版当初は部落民からの好意的評価がかなりあったことを重視する。島崎藤村は、1928年、つまり最初に絶版になる前年に、「融和問題と文芸」と題する一文で次のように述べている。2)「私の家ではある部落の出の客を迎へたことがある。その人は私の『破戒』を読んであれ程、部落民に対する同情を寄せて書いた位だからこの作者は必ず部落民に相違ないとさう思って私の処へ訪ねて来たことがあった。事情が解つて見るとお互ひに笑い出したことだつたが、その客などもあゝいふ作を手にしたといふことが刺戟になつて部落民の救済を志す様になつたとの話もある。それから、私にとつて一面識もない人で私が『破戒』の様な作をしたといふ丈で、私の処へ来て、それとなく素性を打明け、人に知られぬ深い悲しみを語らうとして来た人は今日までにまことに数多くあつたのである。」

 このエピソードは、藤村が水平社関係の人たちから糾弾されていた時期であるので、自己弁護の回想と見ることもできないではないが、私には、作品発表当時の実体験を素直に語っていると感じられる。そして、『破戒』が同時代の被差別部落民にとって、自分たちへの同情者による作品と映ってもなんら不思議ではない。

 後の時代の人たちが、差別語の使用をもって差別なりと断じ、また戦後の部落解放全国委員会が「差別と貧乏の中で死ぬほどの苦しみを受けている部落民は、藤村の『破戒』の根底に横たわっている封建的差別感を鋭く、本能的に身ぬいたわけである。もし、藤村がこの封建的差別の本質を深く認識し、それに抵抗し、新しい近代的人間像を創造するためにどこまでも人間追求をすすめる精神を貫いていたならば、それがたとえ成功しなかったとしても、部落民もまた、当然半封建的社会制度にたいして闘ってゆく藤村に共感し、協力していたはずである。しかし、藤村の『破戒』は、彼の差別観に貫かれた、その差別性の故に国民感情をいたずらに刺戟し、部落民に対する差別を、更に拡大することに重大な役割を果たしたのである」3)と断罪しているが、差別という切口から文学を見るにしても、何か時代と切り離した非歴史的、非文学的評価であるとの感を深くする。

 こうした『破戒』評価の背景には、差別語や差別問題の理解のしかたがあることはいうまでもない。既に別稿で整理をこころみたように4)、差別語に対する向きあい方ひとつとっても、差別語は存在せず差別的な意図のみを問題とすべきであるとする立場から、差別は差別は差別語から派生するといった対照的な考えを両極として、その間を揺れ動いてきたのだ。

 

2 黒人差別と表現―「サンボ」批判の歩み

 

 ところで、本特集の本題である『ちびくろサンボ』の場合をみてみると、上記の『破戒』とよく似た現象をみることができる。すなわち、作品が現れた当初、被差別者に不快の念を起こさせるどころか、一定の支持を受けており、その後の時代の流れの中で差別に対する見方の変化に伴って作品への批判が生じていったということである。

 『ちびくろサンボ』の歴史に関するもっともまとまった出版物であると思われる『サンボ詳解』5)は、黒人の為の出版物リストの中で、『ちびくろサンボ』がどのように扱われているかについて触れている。その中で、1911年から1973年までの推薦図書リストをあげ、黒人を否定的な存在として登場させている当時の他の本と比べた場合、『ちびくろサンボ』は、黒人の子どもにとってフレッシュで能動的なイメージをもつ模範的モデルとされていたことを例証している。そして、特にここで注目されるのは、1935年段階では黒人運動団体によっても『ちびくろサンボ』は排撃されていなかったということである。1935年に出版された『ニグロ:学校図書館のためのアフリカ、アメリカ系ニグロを扱った本のリスト』6)

にも『ちびくろサンボ』が推薦図書として掲載されている。しかも驚くべきことにこのリストには古くからの黒人運動団体である全国都市連盟のC.ロシンズ調査部長がアドバイザーとして名前を登場させている。さらに、黒人女性図書館人の草分けであったオーガスタ・ベーカーは、1943年に著わした論文でこのリストにつき、「黒人生活のあらゆる側面についての、かたよりのない、正確な、均整のとれた絵を子どもたちに提供する本を収集すること」を目的とし、「言葉」「テーマ」「イラスト」の3点に留意して選択されたとコメントしている。後年、『ちびくろサンボ』が批判されるに際しては、サンボという「言葉」が差別語であり、落ちたバターを食べるという非衛生性・けばけばしい色彩感覚・169枚ものホットケーキを食べる異常な食欲等々といったものがこの絵本の差別的「テーマ」であり、「イラスト」自身も黒人へのステレオタイプなイメージを増幅させるとされたわけであるから、同じ黒人とはいいながら、その評価のしかたにおいて非常なへだたりがあったといわねばならない7)。

 他にも『ちびくろサンボ』が成立の当初から黒人にとって無条件全面的に受け入れ難いものとしてあったわけではなく、かなり遅い時期まで好ましい読物としても存在し得たことを思わせる例がある。すでに、径書房よりだされた『「ちびくろサンボ」絶版を考える』の中で指摘したことであるが、児童文学者の渡辺茂男氏は、1955年から2年間ニューヨークの公共図書館に留学していた時に指導を受けていた黒人の図書館員自身が、『ちびくろサンボ』をすすめ、子どもたちにいっしょに読み聞かせていた体験を記している。また、同じく『絶版を考える』の中で、在日の黒人音楽家ハイ・タイド・ハリス氏は「私はずっとこの本が好きでした。今でも好きです。」と証言している。8)

 

3 差別語としての「サンボ」

 

  私は、上記のことをもって『ちびくろサンボ』をアメリカで問題化することを無意味であるといいたいわけではない。確かに、「サンボ」という言葉への黒人の側からする不快感は、明らかに存在する。例えば、1965年にアメリカで出版された、黒人を指す言葉に関する調査報告でも、「サンボ」は85%の黒人が不快と感じており、1位「ニガー」の95%、2位「ダーキー」の87%に次いでいる。そして、同じ調査でも逆に今日では差別的とされる「ニグロ」が19位で15%の黒人しか不快と感ぜず、今日普通に使われる「ブラック」は13位で59%と逆に過半数の黒人が不快と感じている。9)

 当時、アメリカの黒人が「サンボ」を不快と感じた大きな原因は、この言葉が「サンボステレオタイプ」と呼ばれる「御しやすいが無責任、忠実だが怠惰、控え目だが常習的な嘘つきで盗みを働く。その行動は幼児的愚かさに満ち、子どものような大げさなしゃべりかた」10)という黒人のイメージを伴っていたからである。そして、こうしたサンボステレオタイプを温床として、次のような黒人女性の辛い経験を引き起こす。「そのころの学校の中で(1946ー47、コネチカット州ウェストポート)私は唯一の黒人の生徒でした。その話を聞いたあと何人かのクラスメートが私のことをきまってサンボと呼んだことを覚えています。そして初めてもう学校になどいくもんかと思いました。」11)しかし、これとて「彼ら〔白人生徒〕はソフィスティケートされていたので、ニガーとは呼ばなかった」という注釈からもわかるように、やや婉曲な差別であったことがわかる。日本でいえば、「穢多」と露骨にいうかわりに、「同和の人」といっても状況によっては部落民にダメージを与えるのと似ている。

 それはともかく、この「サンボステレオタイプ」は世界中にあったわけではなかったということに注意する必要があるだろう。この概念を提唱したS.M.エルキンスは、そもそもどうして「サンボステレオタイプ」の存在が北米に限られるのかという問いを出発として、南米、北米の奴隷制の違いを論じている12)。したがって、アメリカにおける「サンボ」という言葉のもつ差別性と他の国々におけるそれとはもとから違うわけである。

 

まとめ

 

 以上みてきた日米両国における「差別語」「差別的作品」でわかるように、超時代的、超文化的に「差別語」「差別作品」の線引きができると考えてはいけない。たしかに、ある時期ある地域である状況のもと、ある種の言葉や作品が、特定の人にダメージをあたえることは厳然とありうることである。しかし、それは間を飛び交っている、単語やイメージを消し去ることではなんとも解決のしようがないものであるし、とりわけ文学作品に創作時から年月を経てなされる批判については、より意味するところを差別被差別両側から深く考えていかなくてはならないだろう。決して、ひとつの正しい答えが決まるわけではなく、差別の状況、そして、被差別者の差別への向きあいかたで、その言葉や作品の相貌はとらえがたく変化するものなのである。

 

1) 刊行の事実関係については、川端俊英『「破戒」とその周辺―部落問題小説研究』(1984年、文理閣)が詳しい。また、部落解放全国委員会「『破戒』初版本復原に関する声明」については部落解放同盟中央本部編『差別表現と糾弾』で触れられている。北原泰作「『破戒』と部落解放運動」(日本文学研究資料刊行会『島崎藤村 T』1982年、有精堂出版、所収)は、運動関係者としての証言である。

2) 中央融和事業協会『融和時報』3巻1号(1928年)

3) 註(1)の「声明」。

4) 灘本昌久「差別語と如何に向きあうか」京都部落史研究所月報『こぺる』137,139号(こぺる編集部編『部落の過去・現在・そして…』、1991年6月、阿吽社、に収録予定)。

5) Phyllis J.Yuill, Little Black Sambo:A Closer

Look, New York:Council of Interracial Books for

Children, 1976 残念ながら邦訳はまだない。

6) The Negro;a Selected List for School Libraries of Books by or about the Negro in Africa and

America, 1935

7) 村岡和彦氏は、「黒人図書館員と『ちびくろ・さんぼ』―オーガスタ・ベーカーの苦闘」(『多文化サービス・ネットワーク』No.2、1990年7月)で「黒人図書館員に『さんぼ』のような作品を選ばせた時代の不幸」を指摘されているが、ベーカー自身にとって当時『サンボ』が不快な作品であったとは思えないがいかがだろうか。

8) 径書房編集部編『「ちびくろサンボ」絶版を考える』p.44,162

9) C.H.Smith, We Build Together:A Reader's Guide

to Negro Life and Literature for Elementary and

High School Use,1967 なお、この文献は村岡和彦氏のご教示による。この後「ブラック・イズ・ビューティフル」のスローガンに象徴される黒人の意識運動の中で、「ブラック」の言葉が浮上し、逆に「ニグロ」の言葉は没落していく。この点に関してはN.グレイザー編『民族とアイデンティティ』(1984年、三嶺書房)p.96、110等を参照のこと。

10) 『アメリカ大陸の奴隷制』(1978年、神奈川大学出版部)p.62

11) 註(5)、p.22

12) 註(10)に同じ。

(なだもと・まさひさ 部落問題研究者)