「部落差別を根拠とする権利の合理性について」
京都部落史研究所月報『こぺる』126号、1988年6月
(『部落の過去・現在・そして…』、阿吽社、1991年所収)

灘本昌久

はじめに

 藤田敬一氏は、『同和はこわい考』のなかで、従来の部落解放理論のなかで再検討を要するものとして、「日常部落に生起する、部落にとって、部落民にとって不利益な問題は一切差別である」の命題をあげている(『同和はこわい考』五七頁)。これに対し、部落解放同盟書記長の小森龍邦氏は、この「不利益=差別」のテーゼについて、「長い間、差別されていること自体、部落の責任だと思っていたものに、勇気と自信を与え、差別の本質的認識を前進させるために、運動の当初必要とされた、この命題は運動の最後まで必要とされるものである」と述べている(『こぺる』一一五号、九頁)。両者いずれを是とするにしても、今後の部落解放運動にとってさけては通ることのできないテーマであるが、この一年間の議論の中で、この「不利益=差別」のテーゼの是非についての論議が不十分にしかなされてこなかったと感じている。そこで、本稿では、この問題について、私なりに考えるところをのべてみたい。

命題「不利益=差別」の成立

 戦後の解放運動は、部落解放運動の特殊性を軽視し民主化一般・生活擁護一般に解消しようとする傾向と、部落の生活擁護闘争の独自性を強調する傾向の相克が長く続いた。そして、オールロマンス闘争(一九五一年)、水害復旧闘争(一九五三年)をへて、後者の傾向を代表する朝田善之助が、一九五七年の部落解放同盟第一二回大会で「不利益=差別」の命題の内容を運動方針に盛り込むことに成功したのであった(この経過は、師岡佑行著『部落解放論争史』第二巻に詳しい)。
 この命題の成立経過を文献に即してうもう少し詳しく見ると次のような経過をたどる。
 まず部落解放同盟第一一回大会(一九五六年)の運動方針案の中では以下のような表現になっている(『部落解放運動基礎資料集』第一巻、二一五頁)。

 このような行政上の差別待遇が、今日、部落解放運動の途上に横たわっている障害であり、これがわれわれが差別的な生活状態をよぎなくされる基盤となっている。われわれの生活上における一切の不利な条件が、こうした背景をもっているかぎり、われわれは、日々生起する一切の問題を部落問題として具体的にいうなら差別として評価しなければならない。

 この内容をめぐっては、全国大会の運動方針を討議する分科会に大会参加者の半分にのぼる三百人もがつめかけて、激論となり、「ハシがころんでも差別か」といった極端な意見まで出て、おおもめにもめた。しかし、朝田善之助はこの考えを強く主張し続け、部落解放同盟第一二回大会(一九五七年)では次のように盛り込まれ運動方針として可決された(前掲書、二五四頁)。

土地がない、仕事がない、結婚ができない、そのほか、どんなことでも、部落民の今日のみじめな不幸なじょうたいは、どうしておこったか。もし部落民に、国民すべてと同じ市民権がじっさいに保障されていたなら、今日のようなじょうたいは、なかったはずである。このことを掘り下げて考えてゆけば、必ず差別につきあたる。これを、部落においてつねにおこるいっさいの部落民に不利益なことは、差別として考えなければならない、というのである。

 そして、部落解放同盟内部で上記のテーゼに反対していた共産党グループの影響力が決定的に低下した第二〇回全国大会(一九六五年)の運動方針では、次のような表現となっており、これ以後揺るぎない位置を占めることになる(前掲書、五七五頁)。

部落民大衆の要求は、どんなささいな問題をとりあげても、これを分析しその本質をつきつめていけば、差別と関係のない問題はなに一つない。だからわが同盟の態度は、このような歴史的、社会的な関係から出てくる部落民(の)一切の要求を、つねに「差別」としてとりあげてたたかうことです。

 翌年一九六六年一月五日付の『解放新聞』に掲載された朝田善之助の談話の中に我々が現在「不利益=差別」の命題の定式として理解している「日常部落に生起する問題で、部落民にとって、部落にとって不利益な問題は一切差別である」という文章がでている。この定式が初めてでてくるのは、いつかははっきりわからないが、すくなくとも、この時点で定式化されていたことはまちがいない。
 当初、部落の不利益な条件の背景に差別があるとされていたのが、不利益そのものが差別であるように変化しているのは気になるところであるが、それはともかくこの命題は、部落の生活上の困難の原因を歴史的社会的に理解をすることをおおいに助けた。家が貧しいため自分が学校に行けない場合、差別問題を抜きにして考えると、親の貧乏のせいで自分は進路を断たれたというぐあいに被害者意識にとらわれてしまうだろう。しかし、親の貧乏自体を歴史的社会的に理解することができれば、親の苦しみを自分の苦しみと同じものとして了解することができる。「不利益=差別」は、部落のかかえる困難の背景に差別が色濃く存在していることを強く示唆するものであり、部落民が、部落の否定的な面を個人の責任として背負いこみ自己嫌悪、自己否定におちいるのをおおいに防いだということができる。小森氏のいうように「勇気と自信を与え」たというのはまったくそのとおりであり、社会運動の中でも特筆すべき含蓄の深い命題である。  しかし、この命題はいっぽうで重大な落し穴がある。

オールロマンスは朝鮮人の話

 私が部落解放運動にかかわりだした一九七三年当時をふりかえって思い出されるのは、部落の貧乏と一般の貧乏の差異が非常に強調されたことである。当時は、ちょうど同和対策特別措置法が一九六九年に施行されてまもないころで、同和事業が具体的なかたちをとってあらわれつつあった。また、日本共産党との対立も激化していた時期でもあり、部落に対する特別措置への疑問や攻撃が噴出していた。部落と一般の貧困は違うといったことがさかんに強調されたのは、そうした事情も大きく影響していたはずである。部落の貧困が封建的身分差別の結果であるのに対し、一般の差別は資本主義的自由競争に破れたためであり、救済の優先度において一段劣るというのである。いうまでもなく、この認識の背景には、「不利益=差別」のテーゼが横たわっていた。
 しかし、部落の貧困が他の貧困一般より公的救済の順位において絶対的に優位にあるわけではないということは、同和施策を要求する根拠として持ち出される、オールロマンス事件をみても明らかである。雑誌『オール・ロマンス』に掲載された小説「特殊部落」で描かれた生活実態は、部落の貧困・低位性を集中的に表現しているように語られるが、実は、在日朝鮮・韓国人の生活であった。
 部落解放委員会が出した「吾々は市政といかに闘うか―オールロマンス差別糾弾要項」には、この小説が被差別部落の生活を嫌悪すべきものとして描写している箇所として、次のような引用がなされている(京都部落史研究所『京都の部落史9 史料補編』五三九頁)。

@「目やに・とうそう、果てはみっちゃのはなたれ子たちが、ほとんど裸体に近い風俗でたわむれる空地があり」
A「昨日のぞうもつは仕末もつかず片隅にハエのちょうりょうにまかされ切って、異臭が鼻をつく」
B「ドブロク密造所の経営によって部落の賎民がうるおされ」
C「全部落は部落の生命線としてのドブロク密造所を守るために立上った」

 一読すると、被差別部落のことと読めるし、実際、糾弾要項のどこを読んでも朝鮮人の生活であることをしめすところは伏せてある。しかし、@の部分は、原文では次の通りになっている。「東海道本線のガードに近い加茂川堤は、塵埃の山で埋まっていた。近くに、いつも朝鮮人の目脂癬瘡果ては痘痕の涕たれつ子たちが、殆ど裸体に近い風俗で……(傍点灘本)」(『京都の部落史9』)。実は、ここは京都市下京区屋形町にあった朝鮮人部落なのであった。また、Aの「異臭が鼻をつく」場所は、この物語の登場人物の一人であり、臓物屋を営む河合芳太郎こと金芳成の小屋である。Bのドブロク密造所は、朴根昌の経営する工場で、潤っているのは朝鮮人たちであった。実際に、一九五〇年当時、ドブロク密造で警察に苛烈な弾圧を受けていたのは、現在把握している限りすべて朝鮮人である(『朝日新聞』京都版、一九五〇年九月二六日、五一年一月二四日付など参照)。当然、Cにある密造所防衛に立ち上がった「青年連盟」の青年たちは、すべて朝鮮人であった。その他、主人公の鹿谷浩一は父親が朝鮮人であり、その恋人純子も本名は朴純桂で、この小説の登場人物は二、三人の例外を除けばことごとく朝鮮人である(なお、付言すれば、この屋形町は現在同和地区に指定されているが、ここに居住する朝鮮人は属地属人の原則により、同和事業の対象となっていない)。
 在日朝鮮・韓国人であれ、スラムの住人であれ、あるいは一般的な貧困者であれ、その生活上の困難は、多かれ少なかれなんらかの歴史性・社会性に根ざしており、すべてを本人の責任に帰せるべきものではない。
 そもそも、無色透明の貧困など有りはしない。今から十数年前、私がまだ高校生だった頃、釜ヶ崎で越冬闘争が始まった。当時釜ヶ崎は万国博の景気もまったくさめきった頃で多くの労働者があぶれ、年寄りなどは仕事もなく、ついに食べ物を飲み込む力もなくなるほどで、日に何人もが行き倒れになっていた。日本で餓死する人がでるという「信じられない」話を聞かされた私はおおいにショックをうけて、少しばかり越冬闘争を手伝いにいった。野宿している人が凍死しないようにパトロールするあいまに、ある五〇才くらいの出稼ぎ労働者がどういう経過でここにやってきたかを話してくれた。聞けば、和歌山のミカン農家がふるわなくなり、釜ヶ崎に職を求めてやってきたそうで、ミカン農家関係の仕事がなくなって来た人は他にも何人かいるという。これは、明らかに歴史的社会的要因で起こったものであって、部落の貧しさとどちらが公的救済にあずかるべきかは一概にいえるものではない。「不利益=差別」というのは、本来、社会の底辺の人々すべてに勇気と自信を与えるすばらしいテーゼでなければならず、決して、部落の貧困の解決を他の貧困より優先させることを無条件で全面的に正当化するものではない。もともと、貧困はなんらかの歴史的社会的背景をもっているからこそ、多くの人は、さしあたり自分に利益を与えるものでなくても、公的支出で救済することに同意するのであり、部落の貧困が歴史性社会性に根ざしているからといって、公的支出を優先的重点的に投下することを正当化するものではないのである。
 ただ、誤解のないように付け加えておくならば、私はここで一般的統一戦線の重要性を強調しているわけではない。敗戦直後の部落解放運動が、部落の独自性をうちだそうといかに苦労したかは、前述の師岡佑行氏著『戦後部落解放論争史』(全五巻)につぶさに描かれており、部落の独自性を見いだそうとする悪戦苦闘の道がすなわち、戦後の部落解放運動の道であったといっても過言ではない。
 在日朝鮮人との共闘にしても、あの時点では極めて難しかったと想像される。一九四六年一月、オールロマンスの舞台になった地域で「七条署事件」が起こっている。これは、ヤミ米を扱って警察に逮捕された仲間を奪還にきた朝鮮人を部落のテキ屋が襲撃、朝鮮人四人と部落民一人が死亡するという痛ましい事件であった。朝鮮人排除を手助けすることで警察に恩を売り、そのかわり自分たちのヤミ市の取締りを手加減してもらおうという戦略であったようで(『京都の歴史9』二九四頁)、神戸で朝鮮人を排撃する先鋒隊となって山口組が形成された構図とよく似ている。ともあれ、生きるための戦い、誰が、どの集団が生き抜くかというときに、博愛主義的統一戦線論は机上の空論に過ぎなかっただろう。私とて、あの状況下に置かれたら、血刀を下げて朝鮮人を足下にしていたかもしれない。従って、現実の運動としては、部落の独自性を突き出すことで道を切り開くしかなかっただろう。そうした意味で行政闘争路線が、形成の当初、部落第一主義的色彩を強く帯びたのは当然であり、ある意味で必要であったということもできるだろう。
 しかし、過去の歴史的現実がそうであったとしても、それが現在から将来にわたって合理化されるかどうかについては、なお、こだわらざるをえない。

なにゆえ部落に対する特別施策を要求できるか

 では、部落が他の貧困に明確な一線を画して、他の貧困に優先する公共的救済を要求することが正当化されるのは、どのような時か。それは、国などがその貧困な集団に対して一種の民事賠償的責任を負っているときであろう。そういう点では、強制連行され、あるいは徴用で来ざるをえなかった在日朝鮮人がそれにあたる。しかし、部落と公的救済の関係はそういった賠償義務ではない。戦前、全国水平社が一九三三年の高松差別裁判糾弾闘争の過程で、「差別迫害の賠償」としての融和事業を要求したことがあるが、権利として要求しようという意図はわかるとしても、法的に説得力のあるものではない。
 もうひとつ、他の領域から截然と区別されたかたちで部落固有の行政施策を要求できるとすれば、部落の抱えるさまざまな困難・低位性が部落問題固有の解決方法でないと解決不可能であり、一般対策では不可能な場合であろう。しかし、実際には一般対策では解決不可能な部落固有の問題は案外限られる。現に、同和事業の大半は、一般対策を部落に重点的に振り向けているだけで、事業の中身そのものは、一般対策と変わるところがない。
 したがって、部落への社会的諸資源の優先的配分を合理化するのはこうした部落の貧困の質的差異よりもむしろ、部落にさまざまな貧困や住環境などの社会的低位性が集中していたこと、および、部落の貧困の解決が差別の解消にも直結すると認識されていた(逆にいえば、貧乏だから差別されると考えられていた)ことのほうが私には納得しやすい。つまり、同じ社会的資源を投入しても、一般的な貧困であれば生活が向上するだけであるのに対し、部落に投入した場合は差別をも同時に減少させるので部落に重点的に投入した方が増大する福利が多い。これは諸個人の幸福の総和の最大化をめざすベンサム流功利主義の原理とも合致するわけである。
 ただ、ここで部落の側の優先度が高いのは、あくまで部落に集中した貧困が差別する側に差別を合理化する論拠を与えているかぎりにおいてであって、部落の貧困が過去の歴史的社会的背景をもっているということを絶対的要件とする訳ではない。不良住宅の率が同じでも、部落に資源を投下したときに部落差別解消に役立てば、部落に優先権が与えられるであろうが、それも部落差別解消に効率的に機能する限りにおいてである。たとえ部落に経済的利得をもたらすとしても、それが差別の解消に寄与することがなければ、部落の低位性が歴史性社会性に根ざしたものであっても、投資の優先度は、一般の貧困と変わらないはずである。
 部落への、優先的施策を正当化する論拠は、多くの条件を満たしてのことであり、とりわけ今後も要求し続けることができるかどうかは、部落の貧困が他の地域よりまさっているか、しかも、その低位性の克服が部落差別意識の解消に寄与するかどうかにかかっている。

部落のみへの特別施策から社会的公平の確保へ

 我々は、同和事業、すなわち部落に対する特別施策を要求しえる根拠をこの「部落民にとって不利益な問題は差別」の命題に置き、その正当性をあまりに自明のことと考えすぎてきた。被差別部落が、なにゆえ社会的諸資源を部落に優先的に(時間的)、重点的に(量的)配分されてきたかは、今日問い直さなくてはならない。
 とりわけ、過去に同和行政が貧困一般と区別して部落に重点的に資源を投下したプラグマティックな理由に注目しておく必要があるだろう。それは、端的に言えば、特定の枠をきめて、そこへの重点的施策を行なったほうが投資の総量が少なくてすむからである。いいかたをかえれば、「差別の結果」であるとして部落への投資に限っておいたほうが安上がりであるということである。この点につき、戦後の行政闘争を中心的に担ってきた、当時の若手活動家のひとりであった大賀正行氏は次のような興味深い話を紹介している。

 教育闘争〔一九五九年頃〕では最初、憲法や教育基本法を盾に義務教育無償の要求としてだしたんです。子どもをなん回となく動員してたたかったけど、法がいうのは理想やとか市内の子を全部タダにしたら市の財政がもたん、とかいって要求が通らなかった。そこへ朝田理論がまい降りてきた。
 お前らの運動のやり方一般的で、間違っとる。差別教育反対という差別の問題と闘っとらん。貧乏の点では部落も一般と同じやけど、貧乏の成り立ちが違う。交渉のときには、@差別があるのかないのか、A差別があっていいのか悪いのか、Bでは、どうすればいいのか、と聞け。部落民は差別によって教育の機会均等や就職の機会均等を奪われてきた。それを保証せずして、なにが部落解放かと追いつめていけ、といわれた。
 その通りやった。そしたら教育長は「わかりました」といった。朝田理論でやったら、要求が通って勝利した。朝田さんたいしたもんやと思い、それで朝田門下生になった。
 あとで考えると、最初の理論でいけば全体の子どもを保証せなあかん。ところが朝田理論でいくと、部落の子どもだけですむ。教育長が「わかりました」といったのは、部落の問題がわかったこともあるが、一般と区別できて金が助かる、ということがわかったのと違うか、ということです。朝田理論は、一点突破するときは大きなものをもっているが、一歩誤ると分裂させられるものになる。(『解放新聞』一九八三年六月二七日号)。

 当初、「不利益=差別」を突きつけることで、行政の壁を突破することができたが、この命題は、同和事業の成果が他の分野におよぶことを「防ぐ」防波堤に容易に転化するということがいえる。
 したがって、我々はこのへんで部落のみに対する特別措置という枠を突破していく必要があるのではなかろうか。共産党の主張が一般対策への解消の極論とすれば、部落解放基本法は部落へのみの特別措置という極論である。これまでの、部落解放運動の経験を大事にし、他の社会的に圧迫された人々との連帯を求めていこうとすれば、この両者の中間に、部落、朝鮮人、スラム等々を含めた社会的平等を確保していくための理論が必要とされるだろう。でないと、差別規制法の中で民族差別の不当性を主張しながら、その上位の法である部落解放基本法の中で行政施策を部落のみに限るような齟齬を生じるのである(この点については、師岡佑行著『いま部落解放に問われているもの』二四八頁参照)。

「土建国家ニッポン」と部落問題

 部落から目を外にむけ、現代社会をひろく見渡してみれば、根拠の薄弱な行政施策がいかに多いか。そうした現在の日本の構造的腐敗を論じた著作に朝日新聞論説委員石川真澄氏による論文「『土建国家』ニッポン―政権再生産システムの安定と動揺」(『世界』一九八三年八月号)がある。この中で石川氏は、次のような指摘をしている。

一。現在の選挙は、政策の選択ではなく、個人や地元の利益、所属する集団の利益を誰がどれだけもたらすかをめぐっての選択であり、利益さえもたらせば、選ばれた人が国会議員としてどの様な政策を打ち出してもそのことは問われることはない。そして、その利益の最大のものは、公共事業であり、これを自由に配分できるのは与党である。つまり、与党は与党であるが故に、与党であり続けられるのである。
二。日本は世界最大の公共投資国である(アメリカはGNP比で三%、実額一千億ドル。日本はGNP比一〇%、実額一千二百億ドル以上)
三。建設労働者の数はは農業従事者の数を追い抜いており、農業からの転業組の多くは建設労働者となった。従来、公共事業はできた道路や橋の効用が期待されたが、現在ではできる過程の仕事としてのほうが価値が高い。
四。こうして、日本は公共事業をとってくる「うちの先生」が国会議員に選出されるという「土建国家」的特質をもっている(ただし、すべての地区が利益を得ることは当然不可能であり、新潟・宮城・石川・福岡・佐賀などが厚遇されているのに比して、岐阜・大分・熊本・三重・和歌山などがその犠牲になっている)。

 この「『土建国家』ニッポン」の集中的表現が、田中角栄を支える新潟三区であることはいうまでもない。いくら政治家の倫理を叫んでも、この資源配分構造が断ち切られない限り、まだまだ政治の腐敗は進行する。
 しかし、我々はここで指摘されている問題を他人事として笑ってはいられない。その理由は、部落の就業構造が土建業にかなり偏っているという即物的共通性もさることながら、より重要なことは、本稿で述べてきた同和事業を要求する根拠を常に厳しく問いなおしていないと、知らぬ間に、我々の要求闘争が形骸化してしまい、土建の文字を同和事業に置き換えた構造が部落をスッポリと飲み込んでしまうということである。すなわち、要求内容の妥当性を脇において要求の量的拡大を自己目的化した場合、部落大衆にとって良い指導者とは、部落により多くの施策を引き出してくる人であり、全国大会で決定された運動方針や世界人権宣言などどこ吹く風、部落に多くの物をもたらさない指導者は失格であり、まして「既得権」を手放すように説教する指導者はその地位を失うということになってしまう。
 同和事業にまつわる腐敗・利権の問題、私は、この問題の解決の道のりが非常に険しいように思う。それは、我々が目にする利権・腐敗が多いとか少ないとかいう量的問題だけではなく、より深刻なことは、この問題を解決する理論的足がかりがつかめていないように思えるからである。たしかに、毎年の部落解放同盟の運動方針には、利権の問題が扱われているが、非常に軽い扱いであり、一九八二年の北九州市での土地転がし問題が、あたかも一部マスコミのでっち上げであるかの如き論調が、公然と現われるに至っては、なおさらかけ声だおれに終わっているとの感を深くする(『解放新聞』一九八七年一一月三〇日号)。
 今まで如何に不正腐敗の撲滅に多くの言葉が費やされてきたか。しかし、そこでいつも語られるのは、腐敗は一部であり、大多数の部落大衆は得るべき物を得ていない、幹部は腐敗し大衆は清く貧しいというシェーマである。例えば、第三七回全国大会(一九八二年)で決定された運動方針の中で、利権・腐敗問題に触れているのはわずか二〇〇字足らずであるが、その中で次のように述べられている。「幹部の腐敗や堕落を克服するためには、部落大衆を主人公にすえた解放運動を進めることです。それは、幹部のボス化や腐敗・堕落をうむ余地を作らないし、また暴力団やほかの外部勢力の介入する原因をも取りのぞくこともできるのです。」 しかし、大衆の要求そのものを問題にしない限り、幹部の利権への批判は望むべくもない。新潟三区を見ればわかるように、確かに大衆が得た物は少なく、一部の利権政治家の得た物に比べればわずかであるが、「先生」を支えているのは、大衆の小さな願いなのである。小さなベクトルは砂さえ動かさないが、それらの合力はついに泰山をも動かす。我々が問題にすべきは、その虫眼鏡でしか見えない小さなベクトルの正体である。点のようにしか見えない小さなベクトルはいったいどちらを向いているのか。部落解放運動でも、事情は同じである。

おわりに

 本稿では、これまで我々が同和事業を要求する根拠としてゆるぎないと考えてきたものが、絶対的不変的なものではなく歴史的制約をうけたあやうい側面をもっていることを指摘した。同和事業打ち切りの風潮に便乗する利敵行為であるとの批判がまたしても聞こえてきそうであるが、決してそんなケチなことをたくらんでいるわけではない。強固な岩盤の上にそびえ立っていたはずの部落解放運動の足元が風化し、砂上の楼閣となる危険性が高まっている時、運動を再度揺るぎない基礎にすえ直すために岩盤まで杭を打ち込むことが是非とも必要である。そのためには、従来の常識から疑ってかからなくてはならないし、あらかじめ決められた枠にそって議論するという惰性は戒めなければならない。我々にも、「グラスノスチ」が必要なのである。