アントニオ・ガウディの建築・装飾理論

京都産業大学文化学部 国際文化学科 西村大吾

 

はじめに

 スペインを代表する建築家アントニオ・ガウディは、誰もが一度は耳にするはずである。彼の代表作品であるサグラダファミリアも同じく聞いたことがあるはずである。サグラダファミリアはガウディが亡くなった現在でさえも未だ建築途中だ。それ以外にも、彼が残した作品はどれも人々の心を掴み、彼が創り出した世界へ引き込むものばかりである。それ故、彼は現在でも偉大な建築家として、人々に知られているのである。何故ガウディはそこまで人々の心を惹き込ませる作品を創り出すことができたのであろうか。まず、彼が天才で優れた才能の持ち主であったのに変わりはないが、彼が創り出した作品は独創的な作品が多く、新しい表現である「モデルニスモ」という建築様式の作品を次々と生み出していた。また、いまだ完成されてはいないがスペインの代表的な建築物の一つでもあるサグラダファミリアには、素晴らしい建築技術もさることながら、その中に含まれている「装飾」の数々も大きな魅力なのである。では、独創的な作品や装飾は、一体どのような建築技術から生まれ出てきたものなのか。また、人々の心を掴んで離さない作品を創り出すことができた彼の独創的な発想や、その源はどのようにして生まれたのであろうか。彼の生涯や人間性、またその当時の時代背景や文化状況など様々な視点から、彼が創りだしてきた建築理念や装飾理論を研究していく。

 

1章 ガウディの生涯

1.        生まれ

アントニオ・ガウディは1852625日、スペインのカタルーニャ地方のレウス市で生まれた。ガウディは元気な子供とは言えず、体力が優れず病弱であった。6歳までにリューマチにかかり、ひどい時には歩くことすらできず、ロバを必要としたと言われている。これがガウディの持病で、彼の一生を悩ませた。またガウディの兄弟たちも健康には恵まれていなかった。

両親の名は父のフランシスコ・ガウディ・セーラと母のアントニア・コルネット・ベルトランである。父親の職業は、銅板器具の職人として祖父から代々受け継がれてきており、母親の父も同職について生きてきた。アントニオ・ガウディは、代々の銅板職人の子として生まれてきたのである。ガウディが建築家として大成した晩年、自分が生まれてきた家系について以下のようなことも語っていた。「以前、ある人が、私の弟子だという2人の建築家がいることを私に話した。それに対し、私には1人の弟子もいないし、しかも、彼らの場合、空間をとらえる能力に欠け、私の弟子にはなり得ないと答えた。」「私にはそうした空間をとらえる資質がある。なぜなら、私は、銅板機具職の子供であり、孫であり、曾孫であるからだ。・・・(代々父方も母方もこの職を継ぐ)銅板機具職は板金から立体物を作らねばならない。仕事にとりかかる前から、空間を見ておかなければならないのだ。フィレンツェのルネッサンスの偉大なる芸術家たち全てが彫金師であった。この職種も平板の材に立体を刻む。だが、彫金師の仕事は、それほど二次元の平面から離れるわけではない。その点銅板機具職は三次元を掌握しており、無意識のうちに空間をわがものとしている。これは、誰もができることではない。あれら2人の建築家が、私の弟子というには、この銅板機具職資質に欠けている。」(1)

弟子の話は置いておき、ガウディは自分の生まれてきた家系に対して誇りを持っていた。また、彼の創る作品の数々は、ガウディ家が代々受け継いできた銅板機具職という職に必要不可欠な『空間をとらえる能力』を生かし、大いにこの能力を役立てた。

 

 

2.        建築家ガウディ

建築家ガウディの誕生は、1869年のバルセロナ県立建築専門学校予科に入学した時である。建築学校はスペインには他に、マドリッドにもあったのだが、ガウディの家庭の経済状況からマドリッドに行くことができずまた元から彼の学業成績は、あまり芳しいものではなかったため、奨学生の期待もできなかった。そのような事情でバルセロナに新しく新設することとなったバルセロナ県立建築専門学校と出会い、入学を決めた。入学後、彼の学業成績は、学年が進むに従い悪くなり、惨めなほどだったといわれている。当時、金銭的に余裕がなかったガウディは、大学に通いながら生活費を稼ぐために、専門の製図工としていくつかの場所で働いていた。彼は建築学校と同時に仕事を通して建築設計を実践的にこなしていた。この仕事が彼にとっては、建築家の道を進んでいくうえで大変プラスになったと考えられるだろう。また卒業してからもガウディは、大学時代にアルバイトしていた工匠のもとで助手を続けていた。そして、パリ万博がきっかけでグエル氏と出会い、彼の出資により様々な作品を創作していく。パリ万博に出展した経緯であるが、鳥居徳敏氏の『アントニオ・ガウディ』によれば、工匠の助手のガウディは、鉄細工の打ち合わせのため、それを担当したプンティ製作所という場所をよく訪れていた。そこで、革手袋店のコメーリャ氏と会い、パリ万博出展のためのショーケースを依頼された。そこで、彼が依頼主の期待に応えて制作した小さなショーケースは、当時のスペインでの最大の週刊誌「スペイン・アメリカ画報」でも話題を呼んだ。このショーケースを絶賛した一人にグエル氏がいた。ガウディのファンとなったグエル氏は、彼を調べあげ、彼と対談することができた。この時、ガウディは26歳、グエル氏は32歳という若さであった。この二人の出会いが今後のガウディの建築人生を決定づけるものとなり、多くの作品を残す結果となる。また、田沢耕氏の『ガウディ建築入門』によれば、グエルというパトロン(資金援助者)を得たガウディは、洋々とした生活を送るようになり、盛んにカフェにも出入りしていた。そこで彼は、レナシェンサ(文芸復興運動)の潮流を代表する多くの知識人を知り、自分のカタルーニャに対する思いを固めたということである。このような過程を経て、建築に対する『カタルーニャ人ガウディ』の建築理論を培っていったと考えられる。また、ガウディが残した「独創性とは起源に帰ることだ」という言葉について、ファン・バセゴダ・ノネル氏は、「この起源とはガウディにとって神の作品としての自然である。また建築の偉大な書物は自然であるといっている。」(注2)としているように、ガウディの作品は、自然と密接に関係していることが考えられる。

 

3.        晩年のガウディ

40歳を過ぎたガウディは、身なりにも構わなくなり容貌すら金髪は灰色になり、厳しい断食を行い体も痩せ細っていたようである。そして、田沢耕氏の『ガウディ建築入門』によると、そのころから彼の生活は、仕事と信仰に捧げられたといわれている。この時期からのガウディの作品は、多く制作される。既にサグラダファミリアが着工中にもかかわらず、その傍らでカサ・カルベッ(1898年)、グエル公園(1900年)、カサ・ミラ(1906年)などが次々と制作された。また、晩年のガウディは、極端なまでに禁欲主義となり、「貧しさとみじめさを混同すべきではない。貧しさは優雅と美に導き、富は豪奢と複雑をまねき、美しくはあり得ない。」「芸術家が芸術の向上に見合うためには、苦痛とみじめさに耐えなければならない。規律を守るためには、むちが不可欠であり、むちは規律を乱さぬための唯一の手段である。」つまり、芸術は人間にとって崇高なものであり、芸術家はこれに携わるだけで至福の恩恵に浴しているのであるから俗世の楽しみや豊かさを人並みに受けていてはあまりにも申し訳なく、もしそうするなら芸術の向上は望み得ない。それほど芸術は厳しく、苦痛と貧困に耐えてこそ、よき芸術作品に達し得るというのであると述べられている(3)。このことから、彼の『芸術』に対する考えが窺える。彼が亡くなったのは、1926610日である。原因は、路面電車に撥ねられるという事故であった。67日に事故が起こり、その3 日後に息をひきとった。この事故でガウディは、73年と11か月半の人生を終えた。

 

2章 当時の時代背景と地理的背景

1.        時代背景

まず、ガウディがバルセロナ県立建築専門学校入学する時期、1868年から1874年にかけてのスペインの情勢は、大変政情不安に見舞われていた。だが、ガウディの将来はこの時期に決定されていた。

政治変異の前兆は、684月、首相ナルバエスの死去に始まった。同年918日、女王イサベル2世の廃位に導いた九月革命の勃発。696月新憲法が公布され、立憲君主制をそのままとして、民主制の確立。同年7月プリム将軍の革命政府樹立。7012月同将軍暗殺。同日、国王に選出されたアマデオ一世のスペインへの到着。732月同国王の廃位と第一次共和制の確立。政情は安定せず、政権は軍部にゆだねられる。7412月王政復古。このように、1868年から1874年にかけての情勢は大変不安定なものであった。また、彼の入学したバルセロナ県立建築専門学校にも、文化的な時代背景がある。そもそも建築家のタイトルが確立するのは、18世紀の啓蒙時代、フランスにアカデミーが出現してからである。スペインもフランスに慣らい、1757年マドリッドに王位サン・フェルナンド美術アカデミーを設け、そこで建築家が育てられた。産業革命に伴う科学・技術の急速な進歩は、技術者養成のための学校の設立を促す一方で、工学面を取り入れた新しい建築家教育の確立をも要請した。こうして、新しいタイプの建築学校が生まれた。マドリッドの建築教育が美術アカデミーから独立して、1845年に新たな建築学校が作られる。今日のマドリッド工科大学建築学部の前身である。一方、カタルーニャ地方のバルセロナには、美術アカデミーも、建築家の養成機関もなかった。独立戦争の荒廃から都市を再建するのに、多くの建築家が必要とされたが、建築家が足りなかったため、短期養生のきく工匠(建築家の下のランク。公共建築と宗教建築に関しては建築家の助手としてでなければならないが、その他の民間建築については建築家と同等の資格が与えられた)が急増した。しかし、カタルーニャにはこの養成機関もなく、バルセロナでは石工、左官に工匠の資格が与えられた程度であった。この情況を憂い、バルセロナの商業会議所が建築家教育に乗り出した。1817年、建築家セリェスの建築教室を設ける。49年、バルセロナに待望の王位サン・ホルヘ美術アカデミーが誕生し、建築教室は、アカデミーに所属する工匠学校へと発展させていった。教育の自由を歌う1868年の九月革命勃発寸前の10日、サン・ホルヘ美術アカデミーは、念願の建築学校新設の可能性を見て、それを申請し、翌年の9月にバルセロナ県立工科学校が新設された。そして70年には、同学校に所属して建築学校も新設される。次いで工科学校が廃され、7110月、県立建築学校が独立した。この学校は工匠学校の発展的解消であったため、校舎は商業会議所におかれた。そして、74年から、新しい校舎が完成したバルセロナ大学に移る。この県立学校は、マドリッド建築学校に属し、後者で卒業試験がなされ、マドリッドから建築家のタイトルが発行された。しかし、75年に独立しマドリッドと同じくバルセロナからも建築家のタイトルが発行されるようになった。このような遍歴があり、バルセロナ県立建築専門学校が開校され、ガウディは建築について勉強していったのである。鳥居徳敏氏も、バルセロナに建築学校がなければ、経済的に余裕のないガウディは、マドリッドの建築学校にも行けず、今日の「偉大な建築家、アントニオ・ガウディ」にはなれなかったのかもしれない、と述べている。(注4)

 

2.        カタルーニャ

ガウディを語る上で、重要になってくるのが出生地である。彼の生まれた地は、第一章でも既述したようにカタルーニャ地方のレウス市であるが、カタルーニャである。この地方の人は、歴史的特殊性から地方人としての自己顕示欲が強く、自らをカタルーニャ人と呼ぶことに執着する。そのような土地に生まれたガウディも例外ではなかった。まず、カタルーニャの地理的位置であるが、北部にピレネー山脈をおきながらも、欧州大陸と地続きであり、地中海に面した西部沿岸部が長く続く。この地理的条件が、カタルーニャをスペインの中で最も西欧化された地域としたし、地中海貿易をカタルーニャ人たちの生命線とした。また、この地方を他のスペインと違った特異な存在にさせたのは、イスラム軍侵略の歴史があり、キリスト教とイスラム教の文化が交わり、特に豊かな南部イスラム世界と北部キリスト教世界との通商路として栄えさせたからである。そして、13世紀の後半から14世紀の後半にかけて最高の繁栄を見せるのだが、バルセロナは、14世紀後半から15世紀にかけての相継ぐペストの発生で人口は激減し、経済も衰退した。そんななか、アラゴンとカスティーリャの両国が合体し、スペインが統一されることになった。そして、スペインはその後黄金時代を迎えるのであるが、弱体化していたカタルーニャは1780年頃まで衰退し続けた。その後の、カタルーニャの経済復興は、産業革命を導入することによって、1780年頃から始められた。その担い手である繊維業界が、初めはイギリスから、続いてフランスから紡績機を輸入することによって開始されたのである。だが、ナポレオンの侵略とそれに続く国家総動員の独立戦争(180813)で、経済復興は中断し、荒廃した。しかも、このスペインの弱体化を好機にキューバとフィリピンを除く中南米植民地の独立という追い打ちをくらう。こうしたことから、フェルナンド7世時の中央政府は、その権威を失い王位継承をめぐるカルロス党戦争(183239184760)をひき起こす。この戦争が独立戦争のごとく国土全体に広がらず、局地的に終わったのはせめてもの救いであった。その間(184368)、穏健派政権が続き、経済復興の途に就いた。カタルーニャの繊維業界も着実に成長し、世界第4位の生産量を誇るまでとなった。しかし、経済不況が導火線となり、1874年まで動乱期が続く。立憲君主制への王政復古により、アルフォンソニ12世という名君を得たスペインは、政情はそれ以後長き安定期に入る。1876年から1898年の米西戦争まで、スペイン経済は前代未聞の成長期を遂げ、カタルーニャの繊維業界はまたも黄金期を迎えた。このような歴史から、ガウディは国家を荒廃に導いた2つの国民戦争の間に生まれ、建築家としての活動期は、経済の繁栄期に重なっていた。このような事実は大変重要なことであり、パトロンとなるグエル氏も繊維業界の成功者であるから、スペインの経済状況が、違った状況を辿っていれば、グエル氏とも出会うこともなかったであろう。したがって、ガウディが作り上げてきた建築物の数もかわったであろう。鳥居氏も「建築家は他の芸術家と違い、施主がなくては作品を作れないからであり、晩年のガウディも言うように時間と金なくして秀作は望めないからである。つまり、恵まれた施主の存在は秀作のための必要条件であるからだ。」(注5)と論述されている。またガウディが生きた時代、カタルーニャ文化も発展し、レナシェンサ運動が起こり、カタルーニャ人の意識を目覚めさせ社会全般の復興へと向かわせた。それは、学問・芸術の復興を目的とした諸機関の整備、社会秩序と政治体制の復興、伝統とカタルーニャ人としての自覚の復興があげられる。レナシェンサ運動というのは、すべてのカタルーニャ人をカタルーニャ主義者にした。この運動があり、モデルニスモ建築が生まれ、ガウディはその先駆者として活躍していったのである。また、このような歴史があったからこそ、この地域の人々は、独特の文化と伝統をもつことを誇り、カタルーニャ人の同族意識が強烈で、排他的傾向さえもった。ガウディ自身もかたくななまでにカタルーニャ人であり続け、それを誇示したのである。

 

3章 建築作品と装飾

1.        ガウディの建築理念の前身

これまでの章で述べてきた通り、ガウディは建築家になるために生まれてきたようなものであり、また彼自身も生涯建築に没頭し続けた。そして生涯を建築にあてたガウディは、前代未聞の独創の世界を構築していったのである。しかし、自分自身を目立たせ、誇示しようとすることは、信仰深かったガウディにとっては、慎むべきことであった。そのため、「ガウディの考え」を知ることは難しいが、ここからは、大学時代に受けた受講内容や、彼の唯一残っている「ガウディのノート」などから推察していく。まず、初めに建築の基礎としてウィトル・ウィウス以来、建築は、堅・用・美の三要素を満足すべきものと言い続けられてきた。堅固さは、シェルターとして安全であることであり、構造にかかわる。用途を満足させるとは、快適さと便宜さを追求することであり、例えば、部屋の目的にしたがって方位を決めることや、適切な配置をすること、あるいは、施主の職業や地位とか、建物の性格にふさわしい建築形態をとることなどを意味する。アルベルティも古代ローマの建築家に従い、用途、特に健康的であること、堅固・耐久性、変質せず永続的であること、そして、快と優美、良い構成・適切な装飾を、建築の軽視できない3つの基本要因としてあげている。これを踏まえてガウディの主張を考えていくのだが、その前にガウディの学校の前身であるバルセロナ建築学校の初代校長アントニオ・セーリェスの開校講義より、バルセロナの建築の理念を確かめる。「便利さは主要目的でなければならず、気まぐれな装飾に便利さが犠牲にならないよう留意しなければならない。常に最大の堅固さが、最大の経済性と一致するよう注意しなければならない。建物と各部分の形態のプロポーションがもっともシンプルで、しかも美しい形態、もしくは美しいプロポーションを持つようにしなければならず、それは各部分と同じく建築全体についてもそのように考慮する。すべての部分にはそれ自身で建物の用途とか目的を明らかにする表情を持たせ、外観は内部構成の忠実な結果であるようにすべきである。余分なものすべてから逃れること。円柱、角柱、軒蛇腹(コ―ニス)、(ア―チの立ち上がり部で壁に回される)水平帯とかは、観察者にそれらを設置しなければならない必要性を示すこと。すべての装飾、彫刻とか、浮き彫りとか、銘碑とかは、モニュメントを物語るのに必要なものでなければならない。建物に見られるいかなるものも建物を構成する一部であって、不要なものではないこと。」(注6)こうした理念的な伝統がバルセロナにあったことを知っておく必要がある。

 

2.        ガウディの装飾理念

若き日のガウディの覚書きには、建築が機能・構造・美を満足すべきという3点での観点ではなく、純粋に「美」を追求するためだけの観点の記述がみられる。鳥居氏は、ガウディが考える「美しくあるため」に留意しなければならない三要素として、ガウディは用途・物質的条件・性格を指摘すると述べている。(注7)「用途」について、ル・コルビュジェの「住宅は住むための機械」という考え同様に、ガウディも、用途を徹底的に追求した建築家であったことは、鳥居氏の『ガウディの7つの主張』(注8)からも分かる。ガウディは、用途を探し出すことによって新しい造形を作り出している。「物質的条件」について、材料の耐久性やメンテナンス性などにかかわる条件に留意することは、彼が独学で勉強していたヴィオレ・ル・デュックの『建築辞典』と『建築講話』で何度も繰り返し論じられた建築の不変原理の1つであった。ヴィオレは、「建築家にとって、建物を作るということは、もっとも単純・確実な方法で必要を満足させ、建築に耐久性と、人間の感覚・理性・直観により課せられた規則に従う適切なプロポーションとを与えるべく、前もって抱かれた構想に対し、材料をその性質と持ち味を生かしながら使用することである。その施工者は、材料の性質、使用できる材料、満足すべき必要性、所属する状態によって施工法を変えなければならない。」(注8)と述べている。ここに材料から形態が生まれるとするなら、これもガウディによってなされたことである。後の「作品」の項目で詳しく記述するが、樫の素材が生かされたカサ・カルベットやカサ・バトリョの家具や、レンガ造りのカタルーニャ式ヴォールトと多色彩タイルから生まれた局面建築がそれである。最後の「性格」についてだが、ガウディ自身がこのように述べている。「性格は装飾の基準ということができる。今日、性格は国民性とか、習慣とかに由来する、さらに、物体を使用する人にも由来する。例えば、公共的なものは、家族や個人が使用する日常的なものとは違った性格を持つべきである。公共物はその目的にふさわしい性格、すなわち、威厳さ、形態の壮大さと単純さで応えなければならない。それを立派にするには、より柔軟な理念、したがって、わかり易い理念によるのではなく、幾何学のような厳格な理念で形を整えなければならない。」「『性格』について検討してみよう。公的な性格は、『宗教的』『公共的』『軍事的』ということができ、私的な性格の対象は、家族であり、家族の必要性や便利さであり、家族や家族員の表象である。」(注9)後段は、ウィトルウィルスの建築の分類、公的建築と私的建築の分類とすべて一致する。ガウディが考える性格は、@場所時代による性格A建築目的用途による性格B建築を使用する人の身分や地位による性格の3つからなる。これらの性格の建築的要素であるが、@は、その時代の国民建築や地方主義の建築、Aは、象徴主義や表現主義からの建築、Bはブルジョア建築、宮殿神殿、民家建築などがあげられる。ガウディはこれらの理念を持ち建築していったわけであるが、彼は特に@とAの性格に留意し、建築物を造る。つまり、物質的な必要性とそれらを満足させる建築材料が建物の平面を決定し、精神的な性格と使用材料とが、立体を生むという性格を駆使して一層豊かな造形にしていったのである。

 

3.        ガウディ考察 前期

これまでは、ガウディの建築・装飾について述べてきたが、ここからはガウディが残したノート「ガウディの装飾論」からガウディ建築を考察していく。松倉保夫氏の『ガウディの装飾論』によると、そのノートにはガウディが建築学校を卒業した年に彼自らが建築家として自分の進むべき方向を示した内容が書かれおり、ガウディが理想とする社会の建築目的を満足させる「建築の統一」を実現するための「建築構造と装飾との関係」についてまとめたもので、その装飾論は、彼が学生時代に勉強した建築理論の体系であり、ガウディの生涯設計の方針となったと指摘されている。(注10)「ガウディの装飾論」の書き出しの文章では、「アルハンブラの写真を検討する。アルハンブラには、細い柱を用いており、細い円柱の柱頭に、さらに垂直に施した装飾を付けて高さを強調している円柱は、その柱脚の背後にある彩色されたモザイク・タイルによって、はっきり、その細さを表している。アルハンブラの多くの部屋で用いられている、この細い柱は、それぞれの部屋の空間を豊かにし、建築を大きく感じさせている。この細い柱を使って、壮大な建築空間を作る方法は、ゴシック建築の天蓋を付けた細い柱の効果を思わせる。・・・」これがガウディのノートに書いていた冒頭の文である。この宮殿は、1492年、キリスト教徒によって陥落したイスラムのグラナダの城砦で、宮殿といっても豪華さを誇る宮殿ではなく、自然との調和、水の流れ、花や木陰を愛し、それと一体化されたレンガ、漆喰、装飾された木材を使った建築である。この宮殿はムデーハル様式と呼ばれ、ガウディがこよなく愛した建築といわれている。ガウディがムデーハル様式に興味があった証拠として彼が初期に建築した作品は、この様式を取り入れている。これは、カタルーニャ文化と通じており、また彼が独学で勉強したヴィオレの理論にも繋がっているところがある。それが証拠に松倉氏によると、ヴィオレの『建築講話』では、次のように述べられているからである。「≪オリエントは、われわれの師である≫。我々を魅了する『広々とした壮大さ』は、自然界では見られるが、その姿を建築に求めることは難しい。ここで問題となるのは、建築の正面の装飾が無駄に使われて『壮大さや、安らぎの気持ち』を失わせ、逆に、疲れさせていることである。この点で、『オリエントの人々の建築は我々の師である』と考える。(オリエントの意味する地方として、ペルシャ、中央アジア、エジプトを指している。)オリエントの建築では、いかに豊かな装飾を使用しても、常に安らぎや広々とした建築の効果を損なうことなく、建築の構造を装飾で隠すことはない。オリエントの建築の装飾は、人の心を休め、疲れを癒す方法を知っていた。この明確な思想の表現は、我々の(ルイ14世以来の)建築の装飾とは、かけ離れた別のものである。豊かな建築をつくろうとするとき、その豊かさは一つの思想に基づいていることが必要であり、その思想を鮮明に表現することが必要である。思想の明確さが増せば増すほど建築の豊かさが増す。しかし、それは、装飾が多ければ多いほど建築が豊かになるわけではなく、装飾であふれた建築よりも、装飾が最小限で留められた建築のほうが、建築の思想を理解させやすい。・・・装飾に関しては、実態のない、仰々しい前置きほど、危険なものはない。これらは、しばしば、詩の大袈裟なプロローグを思い出させる。本来、詩のプロローグの内容は、本文の筋と直接関係を持ち、最も興味深い内容を予知させる準備でなければならない。美しい建築の装飾を得る方法は、建築家が一般に、常に言われている主目的を実際に満足させることである。」(注11)この理論にガウディは関心を持ったのであろう。また、ヴィオレの文献からガウディがアルハンブラ宮殿対し、建築の構造と装飾との関係を長い間研究していたと松倉氏は結論付けている。その論拠として、ガウディの作品を見ると、彼が『ガウディの装飾論』を書いた初期の頃から、「グエル邸」の設計の頃までの作品には、ムデーハル建築の影響が特に目立っていることがあげられる。ガウディは、アルハンブラ宮殿で使用された装飾手法と空間構成を自作に取り入れ、新たにモデルニスモ建築様式を打ちだし、次々と独創的な作品を作り上げていったのである。

 

4.        ガウディ考察 後期

前項では、ガウディの作品「グエル邸」までの内容で、彼の描いた建築様式について述べた。ここからは、ガウディ建築の集大成でもあるサグラダ・ファミリアを中心に考察する。この作品の着工は1882年であるが、初代建築士はビリャールであったが、彼は補佐役のマルトレールの間に意見の相違が生じたため辞任する。その後、マルトレールの助手であったガウディが2代目建築士として後を継ぐ。ガウディは、ビリャールの設計を破棄し、自らの建築造りに力を注いだ。ビリャールの当初のサグラダ・ファミリアの計画案は、凡俗なネオ・ロマネスク―ゴシック建築で、独創的な聖堂の建設と世間が騒ぐこともなかった。(注12)この頃から、ガウディの生活態度は大きく変わる。このガウディは31歳と若く宗教にも無関心な人間であったが、家族の不幸が続いたことや、サンタ・テレサ学院の建築主であるエンリケ・デ・オソー司教やアストルガ司教など、すぐれた聖職者たちと出会いにより、次第に信仰に目覚めていったのである。こうして、彼の信仰は聖堂を建築するにつれてどんどんと熱狂的なものになっていく。こうして、第一章の晩年のガウディで述べたように禁欲主義になり、身なりもどんどん変貌を遂げていくのである。彼の作品の背景には、カタルーニャ文化や地理的時代的背景、独学で学んだヴィオレの思想「構造合理主義」、さらには、宗教的思想が重なり、ガウディの独創性が生まれたと言える。

 

5.        作品

ガウディの作品として、1番最初の作品は、前章でも述べたが、グエル氏と出会うきっかけとなったパリ万博のショーケースである。その後、グエル氏をパトロンとしさまざまなものを制作していくわけだが、1879年にはレアール広場の街頭をデザインする。建築物として、初期にカサ・ビセンス、グエル別邸、エル・カプリチョをほぼ同時期に制作している。ガウディの独創性はここでも発揮されており、さまざまな様式が取り入れられているにもかかわらず、一般的にはムデーハル様式でつくられたものとされている。彼は、建物の各部を制作するにあたって、さまざまな建築様式をとりいれている。そしてそれらを自分なりのアイデアで組み合わせ、独自の折衷様式をつくりあげたといえる。例えば、グエル別邸の厩舎の内部は、基本的にはカタルーニャのゴシック建築の伝統に基づいて設計されたのだが、そこにガウディは斬新なパラボラ・アーチ(放物線アーチ)を採用したことがあげられる。『ガウディのフニクラ』によれば、「放物線を描く、アーチ系の構造物の耐久性は古くから知られていたが、ガウディは独特の実験によって理想的な形を得ることに成功し、自らの建築に用いた。糸の両端を固定して吊るすと下向きの逆アーチができる。アーチにかかる力、アーチ自体の材料の重さを計算し、糸をいくつかに等分してそれぞれの等分点に重りを下げる。こうした実験を「逆吊り実験」と呼びこのときにできる放物線、カテナリー曲線、双曲線などをガウディは『フラニク』と称した。実際の設計段階で、この逆アーチを逆転すれば、理想とするアーチの形態が得られる。」(注13)と述べられているように、フニクラはガウディ建築で有効に使われている。20世紀に入ると、ガウディはより一層独創的な設計を施し、石やコンクリートでできているにもかかわらず、まるで有機体のようであり生命が宿ったようなものを創りだす。ガウディは建築と装飾を融合させたのである。このような「生命を躍動させる」ガウディの建築こそ、彼が創りだした装飾法なのである。また、それこそが彼の魅力なのである。

 

まとめ

これまで述べてきたようにガウディの建築・装飾に対する理念は、彼の生い立ち、歴史的地理的背景など、多くの条件が重なって形成され、そこからガウディ建築が生まれたのである。彼の家の代々の職業である銅板器具職の影響や、彼が過ごしたスペインの土地柄、カタルーニャの文化、また建築を学ぶための環境など、全てがそろわなければガウディの生み出した建築の数々は現在存在しなかったのである。また、ガウディ自身が研究したヴィオレの建築理念などがガウディ作品に大変大きな影響を与えていることに間違いは無い。ガウディ作品はスペインが生みだした産物なのである。

 

最後に

現在、スペイン、バルセロナには多くのガウディ建築が点在している。どれも人々を魅了する作品ばかりである。これらの作品は、ガウディの作品であり、スペインが生みだした作品ともいえる。また、サグラダ・ファミリアは建設から約140年たっているが、未だ完成していない。建築途中、建設に関して財政難に陥ったものの、現在では寄付金などから建築が進められている。完成予定は2020年前後といわれている。(注14)ガウディの作品に魅了された人々が、ガウディの作品を完成に導いているのである。今後、ガウディのような新しい建築を作りだす人間が現れた時、どのような建築を作り、人々を魅了させるのかが楽しみである。

 

1)アントニオ・ガウディ 鳥居徳敏著  P,43 L10~

2)ガウディ ファン・バセゴダ・ノネル著  P180 L1416

3)アントニオ・ガウディ 鳥居徳敏著  P,240  L8~16

4)アントニオ・ガウディ 鳥居徳敏著 P,56 L8、バルセロナ建築学校新設より引用

5)アントニオ・ガウディ 鳥居徳敏著 P31 L16

6)ガウディの7つの主張 鳥居徳敏著 P,57 L18アントニオ・セーリェスの言葉より引用

7)ガウディの7つの主張 鳥居徳敏著 P,59 L13P,62より参考

8)ガウディの7つの主張 鳥居徳敏著 P,60 L812

9)ガウディの7つの主張 鳥居徳敏著 P,60 L18P,61 L4(レウス覚え書P,14)より引用

10)ガウディの装飾論 松倉保夫著 P,18 L711より引用

11)ガウディの装飾論 松倉保夫著 P,36 『建築講話』15講より引用

12)ガウディの7つの主張 鳥居徳敏著 P,106  L1516

13)ガウディのフラニク 水谷千賀子作 見出しページより引用

14)ネット記事 http://www.tkago.net/tguide/esp_sf.htmlより参考

 

参考文献・資料

鳥居徳敏『アントニオ・ガウディ』鹿島出版会 1985

磯崎 新 アントニ・ガウディとはだれか 王国社 2004

入江正之編訳 ガウディの言葉 彰国社 1991

水谷千賀子 ガウディのフニクラ INAX出版 1996

松倉保夫 ガウディの装飾論 相模書房 2003

入江正之 アントニオ・ガウディ論 早稲田大学出版部 1997

赤地経夫 田澤耕 他 ガウディ建築入門 株式会社新潮社 1992

栗田勇 イスラム・スペイン建築への旅 〜薄明の空間体験〜 朝日新聞社 1985

J・バセゴダ著 岡村多佳夫訳 ガウディ 美術公論社 1992

鳥居徳敏著 ガウディの七つの主張 鹿島出版 1990