近代における「文明」と「文化」の誕生と

その受容と変化について

京都産業大学文化学部 国際文化学科 中村 学

 

はじめに

私はこれまでゼミの中でドイツにおけるナショナリズムの形成やマス・メディアの社会に与えた影響などをテーマに取り上げ発表してきた。ドイツ・ナショナリズムにおいてはレニ・リーフェンシュタールの映画を、マス・メディアではヴァルター・ベンヤミンの「写真小史」や「複製技術時代の芸術」などを参考にしてきたが、社会の中の中間、あるいは末端の役割を果たす映画やマス・メディアの役割を研究する中で、その根源でありこれらの機能なしでは存在できない「国家」について考えることが必要であることに気付いた。

今現在使われる言葉の多くが遥か昔に中国やヨーロッパなどの外の世界から日本に輸入されたものであることに、私は文化学部でありながら全く知らなかった。書籍や娯楽誌、大衆誌、テレビや映画などで使われる「文明」や「文化」ですらその昔には日本には存在しない言葉であり、明治維新後にヨーロッパから輸入され使用された外来語であった。

今ではどの情報媒体にも登場し、「メソポタミア文明」や「日本文化」など様々な言葉とカテゴリーに連結して表現される「文明」と「文化」は、いつ、どこで、どのようにして生まれ、全世界中で使用されたのかについて参考文献などを頼りに考えた。

 

第1章 政治的な視点で「文化」を見る

1)「文明」と「文化」の誕生

「文明」と「文化」とは始めは同じ意味であり、16世紀のヨーロッパで当時の知識階級のごく一部の人々が使い始めた。しかし初めの頃は「文明 civilisation」という言葉しかなく、「文化」という言葉はなかった。「文明 civilisation」は16世紀ごろに使われていたフランス語の「civiliser 開花する、文明化する」の名詞形で、これらの語は全てラテン語の「civilis市民の」「civitas都市」に由来する。西川長夫『国境の越え方』、p.125参照)つまり語源から考えて「文明」とは市民の生活、様式、礼儀、都市社会のことを指していたようである。

ちなみにヴィクトール・リケッチ・ミラボー侯爵の記した『人間の友、あるいは人口論』という著書の中で「宗教」を「文明」には絶対不可欠な要素である、としており、今日の「文明」の解釈である物質的な充実だけでなく、「宗教」のような人間の精神的な要素もこの時の「文明」には組み込まれていたことには驚く。これはまた「宗教」が当時の社会や人々の共同体を支える母体であり、「文明」がそれほどまでの力を有していなかったことにもなる。

2)フランスの「国民国家」の形成と「文明」の関係

フランスの場合の「文明化」なるものは、当時の支配階級と知識階級の隔たりが低かったため、外部からの変化というよりは内部からの変化だった。啓蒙主義者の唱える自由と平等の理念が人々の「幸福」と「進歩」をもたらすと信じ、その「真の文明」の実現のために「偽りの文明」である特権階級を打倒しなくてはならなかった。こうして1789年にフランス革命が起こり、人権宣言が発布された。しかし実際革命後すぐにフランスがこの理念を実現することはできなかった。革命後すぐに周辺国との戦争があり、1793年のルイ16世の処刑後革命が混沌となり、最初革命を支持していた知識階級も徐々に反革命へと転じてゆく。こうした混乱に終止符を打ったのが1799年のナポレオンの軍事クーデターだった。ナポレオン率いる国民軍の圧倒的な強さに周辺国は次々と敗北し、征服された。そしてナポレオンという「英雄」を中心に一丸となった「平等」な国民によってフランスの近代型国民国家が形成され、「自由」と「平等」という普遍主義が、「文明」と「未開」、「自国」と「他国」などの二項対立を生起し、「文明」という名のナショナリズム(国粋、愛国心)を生み出した。

3)ドイツの「国民国家」の形成と「文化」の関係

フランスにおいては「文明」という名のナショナリズムが定着したわけだが、「文化」はどこから生まれたのだろうか。「文化」という言葉はフランス語の「culture 耕作された土地」という意味の語からやがて土地の「耕作」や家畜の「世話をする」といった意味に変化した。そこから能力の育成や精神の修養といった意味まで派生したのである。(同書、p.133このフランス語の「culture」がドイツの「文化」「文明」の訳語として輸入され18世紀後半にはKulturと綴られた。しかし最初このKulturはドイツ知識人たちの間でマナー、反野蛮、進歩の「文明」とも精神の修練、能力の育成、伝統の「文化」としての意味にも用いられており、完全に「文化」としての意味で使われていたわけではなかった。

しかしその後のフランス革命が血みどろになるにつれ、革命を支持していたドイツ知識階級(フィヒテなど)が次々と反革命に転じていくこととなる。さらに1806年のナポレオンによるドイツ占領によって対フランスのための統一ドイツ国家への急速な政治転換を迫られることとなった。

4)ドイツの上からの「改革」

ナポレオンの占領時にはドイツはまだ統一国家ではなく、神聖ローマ帝国として各地の有力者達がそれぞれの領地を治めていた。そのなかでも強力な陸軍国であったプロイセンはイエナの戦い(1806年)においてナポレオン軍に敗れ、ティルジット条約で領土の大半と莫大な賠償金を課せられた。この敗戦から国内の近代化の必要性を感じたプロイセンは、宰相シュタインとハルデンベルクによって1807年に農奴解放(身分制の廃止、職業選択の自由)が行われた。しかしこの改革はフランス革命のような「下」からの急激な改革ではなく、「上」からの改革であったため、実際に農奴解放によって自作農になった農奴は少なく、ユンカー(大地主貴族)経営が行われた。つまり旧体制は完全に崩壊せず、封建制のまま近代国民国家の道を歩むことになる。

ドイツは封建制のまま近代化がすすめられたものの、フランスとの物質的な発展の差は歴然としたものであり、(封建制の下では資本主義は発展しない)フランスのような「文明」精神に基づく「国民」創出は困難だった。ここでドイツ知識階級が見出したのが物質的、進歩的な「文明」に対抗する精神的、伝統的な「文化」だった。ナポレオンによるベルリン占領の中、14回にもわたり行われた哲学者フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」にみられるように、「文明」のような普遍概念よりも、ドイツにおける個別性、特殊性を強調した内容がみてとれる。

長期間の封建体制(ドイツ特権階級は親フランス)、ドイツ特権階級と知識階級との隔壁の高さからフランスの「文明」への対抗概念として「文化」が用いられた。

こうしてフランスにおいて「文明」が、ドイツにおいては「文化」ナショナリズムが生まれ、「文明」が進歩主義と植民地主義へ、「文化」が文化相対主義と血統主義となった。

*フランス型

・人間の進歩に根ざしたナショナリズム

・フランスの文明に同化する者のみ受け入れられるという普遍主義

・進歩の遅れた未開社会に進歩した文明を輸出するという植民地主義

・フランスにおける「文化」は「文明」に二義的な意味合いに過ぎない。

・出身地主義(人種を問わずフランスで生まれればフランス人)

・旧体制の人間の完全市民化によって「自由」と「平等」は維持される

*ドイツ型

・人間の伝統に根ざしたナショナリズム

・個々の特殊性を認める文化相対主義

・他の文化よりも自分の文化のほうが優位であるという自文化中心主義

・血統主義(出身地を問わず親の国籍で決定される)

・旧体制(ユンカーなど)は完全崩壊しなかったので「自由」と「平等」は浸透しなかった。(対フランスのため、国民は軍事力にならなくてはならなかったため)

5)近代国民国家

両国におけるナショナリズムの根底が「文明」に根ざすのか「文化」に根ざすのかという違いはあるにせよ、「近代国民国家」という単一言語、単一民族という形態をとっていることでは共通している。この「近代国民国家」はいかにして形成され、世界中に伝播していったのだろうか。

「近代国民国家」とは同じ民族、同じ言語、同じ伝統を共有していると想像し、それを信じて疑わない「国民」がいる世界である。「国民」は国家に対して受動的ではなく、積極的に帰属しており、国家の危機に瀕した場合には命を捧げることも惜しまない。「国家」や「国民」は想像の産物であり、その国家が与えた装置(新聞、テレビ、学校、職場、電車、飛行機)を利用することによって、普遍的権利を生まれながら持っているはずの人間は何らかの「国民」として有機的な想像の共同体の中に組み込まれてゆく。

フランス革命前のヨーロッパ社会は王族や貴族などの特権階級が領地を治める封建体制だった。彼らは互いの権力拡大のため政略結婚を行い、違った人種、言語を持ったもの同士の「雑婚」は問題ではなかった。当時の特権階級、王族、貴族、学者などの知識階級、宣教師などの聖職者などの間の共通語はラテン語で、これ以外の身分はラテン語を理解できず、それぞれの地方の方言を使い、識字率はきわめて低かった。

しかし15世紀にドイツ人のグーテンベルクの活版印刷術の発明と宗教改革によって、書籍の発行部数が飛躍的に伸びた。それによって出版資本主義(経済社会とマス・メディアの目覚め)が言語的統一(国語の誕生)をヨーロッパに実現させることとなった。(同書p.80

この出版資本主義の大量生産、大量消費は大衆に富を与える能力となり、大衆のコミュニケーション能力と経済観念を発達させた。宗教改革によって、聖書の言葉が一部の人間にしか通用しないラテン語から各地方の方言を標準化した「フランス語版」「ドイツ語版」に翻訳され多くの人に読まれるようになった。出版資本主義と言語的統一、そして宗教改革の波が大きくなるにつれ、大衆に自己を知覚する能力が身についたのである。大衆が自然に精神と生活を自律することができたので、もはや宗教観念や絶対王政のような少数の特権階級の力は大衆になんの影響力をもたなかったのである。フランス革命後の特権階級の人々が完全にブルジョワジー化(大衆化)したのもこうした事情がある。

こうしてナショナリズムは精神面は統一言語による新聞、ラジオ、テレビ、映画などと国民イデオロギー装置(国旗、記念碑、英雄)などを通じて「自分は○○国民」だという想像性を与え精神面を操作し、制服、工場、デパート、徴兵制などから生産と消費の場、そして死に場所に身体面を帰属させるのだ。資本主義という土台のもとに成り立つ国家体制には必然的に人々の断絶性、差異性が現れるのだが、国民国家は「文明 フランス、アメリカ、イギリスなど」と「文化 ドイツ、ロシア、日本など」の名において人々を繋ぎとめる。

6)日本における「文明」「文化」の受容

前述した通り、ヨーロッパにおける「文明」と「文化」の形成と発展はそのまま近代国民国家の形成と深く結びついていた。「文明」と「文化」はほぼ同時期に生まれた言葉であり、「文明」の概念はフランスやイギリスなどの先進国で定着し、「文化」はドイツ、ロシアなどの後進国で定着した概念であり、この二つは意味の上では両極にあるが、どちらもヨーロッパの価値観の根源である。

このヨーロッパ、すなわち西欧的価値観の眼でもって分節化された世界は、やがて西欧によって支配され、そして彼らに対抗するかあるいは同化する形で同じ「国民国家」の道を歩むこととなる。その一つが我々の国、日本である。

日本における「文明」と「文化」の「発見」は1868年の明治維新から始まる。「文明」と「文化」はそれぞれ翻訳語であり、「文明」は「civilisation」または「civilization」から、「文化」は「culture」または「Kultur」の訳語である。(同書、p.173

しかも「文明」と「文化」という言葉自体も中国の古典の『易経』や『書経』などから借用した言葉で、日本で独自の意味として使用されていた。(同書p.173

中国の古典から借用された「文明」という言葉は「文徳の輝くこと」「世の中が開け、人知の明らかなこと」などという意味で使われ、「文化」は「文徳によって教化すること」という意味であった。

このことからいえることは、西欧世界の「civilisation」「civilization」「culture」「Kultur」と中国、日本の「文明」「文化」の言葉の意味には大きな差があったということである。西欧から輸入され、中国から借用された「文明」「文化」の概念が日本においてどのような変化をたどり解釈され定着したのだろうか。

明治初期には「civilisation civilization」の訳語には「文明」を、「culture Kultur」の訳語には「文化」が正確に当てられていたわけではなく、人によってこれらの外来語に「文明」「文化」をバラバラにあてることも多かった。そしてごく短い期間の中でしか議論されず、特に正しい解釈が与えられないまま「文明=civilisation civilization」という図式のみが決定し、その後に「文化=culture Kultur」ということが決定した。つまり「文明」「文化」という言葉の概念や区別が曖昧なまま使用されることになったので、現在のような用語上の混乱が起こるのである。日本語の「文明」「文化」とはルーツをたどれば現在ほどの十全で力を持ったものではなく、実態は非常に空虚なものだったのだ。

7)日本の「文明化」

では日本における「文明」概念の形成はどこから起こったのだろうか。それはまぎれもなく日本の開国から始まった。開国後から日本にもたらされたものはすべて「文明」のシンボルであり(特に黒船や鉄砲などの兵器)また日本を訪れたペリーやハリスも国の代表であり、目的は国益とともに日本の「文明化」だった。そして明治維新後の四年の間に急激な改革が行われた(散髪 廃藩置県 廃刀令 学制頒布など)が、日本の「文明化」への第一歩だった。明治41112日(1871)にアメリカ・ヨーロッパへ50人近い要人を一年十ヶ月間派遣した岩倉使節団が「文明化」への方向を定めた。

岩倉使節団がヨーロッパを訪れたその時期は正にヨーロッパにおいて「文化」の力が「文明」を打ち負かしたときであった。普仏戦争によって勝利したドイツはフランスのベルサイユ宮殿において華々しく統一ドイツ帝国の戴冠式を行い(このことがフランスナショナリズムを刺激し、第一次世界大戦で復讐を招くとともに植民地主義へと駆り立てた)使節団の一行もフランスよりはドイツに対して好感を持ったようである。しかし当時の使節団には、というよりはこのころの日本人には概念としての「文明」が何であるのか、「文化」が何であるのか、が明確に理解されていなかったのでヨーロッパにおける「文化」の勝利が日本に何かの影響を及ぼしたかどうかは不明である。

日本のような後進国が西欧支配に対抗するために急速な「国民国家」形成を進めなければならなかったために、「文明」「文化」の具体的な概念が理解されないまま使用され、この概念がもたらす危険性を自覚しないまま「文明」を受け入れた事情が今日まで問題を引き伸ばしてしまった要因の一つである。福沢諭吉の「脱亜論」に見るように、西欧の植民地主義の論理を鵜呑みにして「朝鮮人」や「支那人」は日本人のような「文明化」されていない人々であり、ゆえにアジアの中で最も「文明化」されている日本人によって「文明化」されなくてはならないというような話がでてくるのである。

もう一つの原因としては、日本人は遠い昔から異国の「文明」に対し非常に拒絶反応が少なかったことがある。それは日本人が集団アイデンティティを形成する要素としての強力な拠り所となる宗教や道徳が欠けていたことにも注意しておかなくてはならない。(同書、p.193

日本における「文明」の概念とは明治維新によって西欧からもちこまれた概念であり、このことがその後の日本の近代化に大きく影響を与えたのだ。未だ近代化のおくれた後進国の日本には西欧の物質的「文明」を受け入れざるを得なかったことと、古い慣習や様式から抜け出せない多くの日本人を「文明化」しなくてはならなかったことを考えれば、当時の知識人達が「文明」という概念を「理想的な人間像」として思い描いても不思議ではないかもしれない。では明治に輸入され定着した「文明」の対となる「文化」は一体いつ頃から日本人に認知されたのであろうか。

8)日本の「文化」

厳密に言えば「文化」は明治初期においては「civilisation civilization」の訳語として用いられており、「culture」「Kultur」の訳語としての「文化」が用いられていたのは大正時代に入ってからであった。明治20年代から現れた「日本主義者」なる知識人達の論説で、はじめて「文明」と「文化」との概念が区別された。彼らの「文化」の概念はドイツ哲学の影響を受けていた。しかしドイツのような「文明」への対抗概念として「文化」を置くのではなく、「文化」という伝統性、固有性と「文明」の進歩、普遍性がいずれも国家の発展には必要であると考えていた。これは明治初期の「文明化」にはなかった概念であり(自分の文化をいかに相手の文化に同化させるか)、現在の我々から見ても非常に理想的な発想である。ではなぜこの理想的な発想がありながらなぜその後の日本の植民地政策と第二次世界大戦へといたったのか。それは1890年代に西欧列強国が次々と清国へ進出してきたこと、アメリカのハワイ併合などによって日本の国家的危機への不安が当時としては画期的であった国民の自律と進歩に根ざした「文化」概念を「自文化中心主義」へと変えた。「文化」とは国家に強く根ざしたものであり、国家が危機に直面した時には国民に結集を呼びかける強力な政治的イデオロギーになるのだ。

9)「文明」と「文化」が日本にもたらしたもの

「文明」と「文化」はヨーロッパで生まれ、やがてフランスなどの先進国においては「文明」を、ドイツなどの後進国では「文化」を機軸に「国民国家」が形成され、対立した。そしてこの「文明」対「文化」の図式が短い間にアジアやそのほかの地域を巻き込み(むしろ主体的にこの図式に参加したのだが)「国民国家」は「世界化」された。「国民国家」は個人の人間としての自由を許さず、没個人化した「平等」なる「国民」を作り出し、他の「国民」を互いに憎み合わせ、戦わせ、優劣をつける。かつて限りない人間の進歩と揺るぎない安定な世界、つまりは「完全」を夢見た我々人間は、今、「完全」に「不完全」な人間になったのだ。日本においては明治維新において初めて「文明」に出会い、自分の文化を積極的に西欧の文化に適応させた。そして大正では「文化」を見出し、他の文化を自分の文化に適応させた。日本では明治が「文明」の欧化であり、大正が「文化」の欧化だった。つまりヨーロッパのような「文明」対「文化」のような反発しあう形ではなく、両方がじつに巧妙に作用していたのである。そして第二次世界大戦の後、日本はアメリカのような「文明国」によって裁かれアメリカの「文明」によって復興をとげるようになるのだが、驚くべきことに「文明」によって裁かれたはずの「文化」は新憲法で復活したのである。

第2章 芸術の視点から「文化」を見る

10)日本の戦後消費社会における「文化」の受容と変化

大正期の日本の文化概念がドイツ文化概念に基づいた強力な自文化の絶対優越主義だったとしたら戦後の日本の文化概念はアメリカの民主主義という文明概念とドイツ文化概念の融合だったといえる。新憲法第25条には「 すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあるように、戦前の政治スローガンの中心として絶大なる影響力を持った「文化」という言葉は戦後も生き残り、急速な経済復興の中で芸術、人物、物、歴史的事件、人間の力すべてを「文化」という言葉に吸収していったのだ。戦後に登場した多くの「文化○○」はその象徴だろう(文化映画 文化英雄 文化革命 文化価値 文化勲章 文化功労者 文化財など)

今までの章では主に政治的な「文化」の側面を見てきたが、ここで今の我々の生活により近い、あるいは可視的な芸術的な観点から「文化」を見たいと思う。政治的な「文化」の顔と芸術的な「文化」の顔は少なくとも近代においては二人三脚で発展してきたといえる。しかし現代においては、豊かになった市民生活の中で拡大した知覚、認識力がこの密接な関係を変えようとしている。

11)芸術の政治性 天皇の「御真影」

芸術が政治的な意味合いで果たした一例を挙げてみよう。1868年以降に始まった明治天皇の全国大巡幸は、戊辰戦争で世の中の体制を変えた明治政府が、新たな体制を日本全国に眼に見える形で示すために行った。後にこの天皇という支配する側が見る、支配される側の民衆が見られるという「権力が見る⇔被支配者が見られる」という構造が明治政府と天皇の権力を強化した。その証拠として江戸中後期に全盛だった錦絵の政治的、歴史的事件を面白おかしく描くという「脱権力」の民衆娯楽が衰退してゆき、天皇の「御真影」が民衆の生活に登場する。実際の天皇を被写体にして撮影した写真は明治5年に和装で撮影され、6年に洋装で撮影された。だが「御真影」として登場した「天皇像」は肖像画家のキョッソーネに依頼して描かせた肖像画を写真撮影したものであった。

なぜこのような手のこんだことをしなければならなかったのか。それは写真の持つレンズという機械の「冷たい眼」が被写体に何のしがらみもなく無遠慮に迫り、被写体のもつ身体を均質化してしまうからだ。被写体はこの「冷たい眼」の前ではいかなる権力も威厳も通用しなくなる。明治政府は「神格化」された明治天皇の身体が生身の「人間」として民衆に知覚されてしまうことを恐れたのだ。

12)消費社会と大衆の知覚の変化

芸術的な「文化」の観点は、この写真の登場によって大きく変化する。一つ整理しておくと、「芸術」というのは知的な趣向のある創造物の事で「ハイ・アート」と呼ばれるものである。芸術とはもちろん知的で教養のある人々が共有する特権的なコミュニティーであり、封建社会のなかの民衆にはそれがなかった。

しかし宗教改革の中で発達した出版資本主義と言語統一によって民衆の知覚が大きく変化した。例としては、出版物に記されたあるにぎやかな街並みや、美しい風景や、珍しい遺跡などを文字で読んで理解し(つまり記号化された情報を無意識的に読み取り、創造する力が身につく)想像によってまるで自分がそこにいるかのように感じることや、小説などである人物ABが登場し、この二人は物語上で全く出会うことがないとする。しかし読者にはこの二人がいついつどこで何をしていたか、二人が全く知らない秘密の関係(ABが同じ恋人Cとつきあっていることなど)が全て把握されているのである。この小説の手法が後の映画の「平行編集 モンタージュ」などに繋がり、何より「自己を主体化し、他者を客体化する」視点が訓練されるのである。

話が少々飛んでしまったかもしれないが、とにかく19世紀の写真の登場によって今まで文字化されていた情報が現実性を持ったこと、それをどう解釈するかは文化的価値判断と個々人の趣向に委ねられることになるが、絵画のような人間の目の感覚に頼ったメディアよりも機械の眼のほうがはるかに脱文化的で機能的であった。写真はどんな階級の人間にも所有することができ、写真に登場することによって自身の身体が「客体化」される。それは写真が登場した頃現代のブロマイドやプリクラのような感覚で、有名人の写真や自分自身の写真を持ち歩くことが流行したことがある。客体化そして脱身体化した写真は大衆の中に消費されることによって独自の価値を得る。つまり写真の像があまりに客観的で人間の主体的価値判断から脱しているため、判断が揺さぶられるのである。

写真に対する評価は芸術論や美術論などからは否定され続けてきた。写真が「芸術」としての認められるには映画の誕生を経て、アメリカのハリウッド映画とハリウッド・システム(脚本・制作・配給などをそれぞれの担当者が分業する資本主義に基づいた映画産業)が世界の経済と文化に大きく影響を与えてからであろう。

消費社会の中で民衆は大衆へと変化し、もはや以前の土地や古い慣習に縛られることなく住みたい場所に住み、やりたい仕事に就くことができるようになった。そして消費社会の申し子たる写真や映画がかつてのハイ・アートと呼ばれる芸術が持っていた理念(神話・宗教)と形態(絵画・彫刻)という「美の理念」もしくは「アウラ」と呼ばれるものを失い、大衆という数限りない顔の見えない個人化した人々の中に大量に複製され消費されることによって大衆の実態のない姿(大衆の理想像)を提示し、物が神格化されヒトがモノに帰属してしまう。例えば金だとか。

13)文化装置という可能性

消費社会の中で大衆がそれぞれの個人の幸福を追求するということは国民国家にとって脅威であり、大衆文化を安上がりの軽薄な娯楽と見なし批判していたハイ・アートの人々と大衆文化との価値判断の違いはますます広がっていった。

では芸術における「文化」とはただ消費社会の中で大量に複製され消費されるだけの何の精神性も持たない空虚な概念なのか。現代の芸術文化なるものは何も救えず、全く救われないものなのか。

ここでその救いの道をひとつあげてみよう。それは「文化装置」(cultural apparatus)いう概念で、それが内包しているものは様々だ。祝祭から建物、音楽、映画、インターネットなどあるが、要するに人間と文化との媒介を果たし、同時に文化を配信する役割を担うものである。現代社会はまさにこの文化装置の権化のようなもので、日本において最も力をもっているのは携帯電話とコンビニだろう。日本社会におけるインターネットの急激な普及に対し通信網の整備や立法が遅れをとったことが逆に市場の拡大やコンテンツ(着メロ、動画、カメラ、ゲーム、ショッピング)をもたらした。さらに日本において特殊なのは携帯電話で注文した商品をコンビニで受け渡しするサービスだ。ネットにおいてのみ存在可能な仮想モールと町に必ずある現実のコンビニという実存店舗との協力は個人に文化装置が身近になるとともに地域に貢献する社会的役割を果たしている。アメリカからはじまったこの二つの文化装置は日本に輸入され日本人のニーズと独自の環境で変化し、そこで生まれた新たな「文化モデル」がアメリカや他国に逆輸出されるのだ。

このように芸術における「文化」の新しい可能性は一人の天才的な発想と閃きによって生み出された人間の創造物を「文化装置」を通じて世界中の大衆に創造的参加を求めるのだ。つまり「創造」と「受容」のバランスを保ち、それを多くの創造者(知的な創造を創り出す者)、受容者(コレクターや研究者)の両者に提供し、それに感化されそこからさらに新しい創造物が生まれる。まさに「文徳によって教化すること」という意味を成すのである。

かつて、バラバラな個人をひとつに結集させた国民国家の政治的イデオロギー装置は、現在では個々人が手軽に所有し使用することができるようになった(特にインターネット)。そして消費経済の成熟は「買う」ことよりも「売る」ことのほうを益々難しくしている。そこへ様々なサービスやアイデア(ケ 現実/ハレ 非現実化の演出やブランドのロゴマーク)を付けることによってモノは売れ、それを所有する人はその物の機能性以上の価値を味わうことになる。例えばベンツやブランド物などは自動的にそれを所有する人の地位を高く位置づける。つまりベンツやブランド物は、社会の中である特定の意味をもった象徴(icon 標識)なのである。

14)おわりに 「文化」をよく考えることの大切さ

近年よく聞かれる「文化保存」だとか「文化力日本」などの立派なうたい文句を使って我々の「日本人」精神を呼び起こし、また創造しようとするこの姿勢は、新世紀にはもう時代遅れのように思える。あるいはよほど今までこの「日本」という国が「文化」に対して曖昧な概念しか持たずに放置され続けたために「文化」を失い、このような前近代的な発想が今も力を持ち続けているのだろうか。奈良時代の貴重な遺跡が構想ビルの下敷きになることや、日本にしか生息しない生物や植物などの生態系の自然は「文化」に含まれないのだろうか。いずれにせよ、「文化」に依存する心が一番「文化」にとっても「国民」にとってもよくない。今の「文化」は非常に変化の移り変わりが速く、抱えている意味も限りがない。我々は「文化」を追求するうちいつの間にか「文化」の中に取り込まれ、その状態にも気付かず生活しているのである。もし自分の「国」や「文化」を愛するという志があるのならば、自分の中にあるその「愛国心」や「文化精神」という有機的な繋がりをいかに乗り越えるかが重要であり、乗り越えた先にこそ本当に愛すべき磨かれた「文化」があるのだ。そしてその乗り越える力は個々人の人間力・文徳にかかっているのである。

 

 

参考文献

1

・西川長夫『国境の越え方 比較文化論序論』筑摩書房、1992年、本文中に参照箇所を明記。

・西川長夫『地球時代の民族=文化理論 脱「国民文化」のために』新曜社、1995

・西谷修『戦争論』岩波書店、1992

・ベネティクト・アンダーソン『想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』白石隆・白石さや訳、リブロポート、1987

E・ホブズボウム,T・レンジャー編『創られた伝統』前川啓治,梶原景昭他訳、紀伊国屋書店、1992

2

・ドミニク・ストリナチポピュラー『文化論を学ぶ人のために』渡辺潤・伊藤明己訳、世界思想社、2003

・多木浩二『天皇の肖像』岩波新書、1988

・多木浩二『眼の隠喩』青土社、2002

・関口英里『現代日本の消費空間−文化の仕掛けを読み解く−』世界思想社、2004

・神林恒道・太田喬夫『芸術における近代』ミネルヴァ書房、1999

・ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』晶文社、2003

・ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』紀伊国屋書店、1995