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ニーチェ哲学 京都産業大学文化学部国際文化学科 松熊良太 はじめに 19世紀後期に生きたニーチェの思想をとりあげる。ニーチェの思想は現代思想の最大の源流の思想といえ、ポスト・モダニズムに代表される、ジャック・デリタ、ミッシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズなどに大きな影響を及ぼした。 では、彼が何を禁じ手とし、どのような「価値の創造」を見出したのかをまとめるのが本論の目的である。なお、その説明の多くを竹田青嗣氏の『ニーチェ入門』(ちくま新書、1994年)(以下本書からの引用はAとし、竹田氏を氏と表す)に依拠した。 19世紀後期の時代背景とショーペンハウアー ニーチェは、1844年のプロシャ・ドイツに生まれる。この頃のドイツは、まだまだキリスト教を中心とするプロテスタントなどの宗教が主流を成していた。ニーチェの父親はプロテスタントの牧師で、両親とも代々教師の家系であった。宗教的な厳格さと女系家族的雰囲気の中で育てられたが、後の彼はキリスト教批判の立場をとる。1870年頃、25歳前後のニーチェは、音楽家ワーグナーと、哲学者ショーペンハウアーに大きな影響を受ける。 ショーペンハウアーはニーチェが16歳のときに死去しており、直接は会っていない。かれは『意思と表象としての世界』によって「厭世哲学の代表者として当時から盛名をはせていた」(A,p.32)若き日のニーチェは、この本の中に「自分自身の存在を、今までとはまったく違ったかたちで見事に説明し表現してくれる新しい理論を見出した」(A,p.29)。それは、「事実などは存在しない、ただ解釈だけが存在する」(ニーチェ『権力の意志』より)という言葉が表すように、ニーチェのテーゼとなったといえる。要するに、人は事実を自己の意思によって解釈し、その世界を表象するということである。 ニーチェ思想 ニーチェは、当時の主流を成していたキリスト教を構成する考えに対応した回答をだしている。ここでは、ニーチェ思想を以下の二つに分けて考える。 1.「キリスト教および近代哲学の『心理』と『道徳』観念への批判」と「『ヨーロッパのニヒリズム』についての根本的考察」 2.「これまでのすべての『価値の顛倒』と、新しい『価値の創造』の思想」 これらは、矛盾の生まれないひとつの思想体系である。 1.キリスト教および近代哲学の「心理」と「道徳」観念への批判と「ヨーロッパのニヒリズム」についての根本的考察 (1)「ルサンチマン思想」批判 ルサンチマンとは、物質的、心理的な様々な場面において、優位に立ち、持ちうる者への妬み、嫉妬である。すなわち「自分がこうしか生きられないという事実に対する心理的反動形態に他ならない。『凡庸な人間』は、自分の存在のみすぼらしさの原因を過去(「そうあった」)にたずね、それが「動かしえない」ものであることに怨根をもち,復讐しようとする」(A,p.176)ことである。ニーチェは、キリスト教的思想はこれを「苦悩それ自体が人間存在への『罰』であったという教説」(A,p.177)をつくり人々を支配し続けたと非難する。 (2)「反ヨーロッパ形而上学」的立場 次に、ニーチェが「反ヨーロッパ形而上学」的立場をとり禁じようとしたものは、氏いわく、第一に、「苦悩と矛盾の意識の“反動”(打消し)として、『ほんとうはかくあるべきだ』という出発点をとるような一切の思考方法」、第二に、「『博愛』や『絶対平等』や『ユートピア』をその基礎にするような一切の思考法」、第三に、「絶対的な「他者」(神)から、「主体」や「自己」を規定するような一切の形而上学的な思想」(以上A、p.232)である。 ヨーロッパの形而上学は、「神」という「客観」存在を根底に置き、「博愛」、「隣人愛」、「絶対平等」を規範とする「真理」を説く。しかし、ニーチェは、そもそも客観存在などはないという。あるのは主体的意志の解釈なのであり、さらにそれは、精神から来る心理的欲求ではなく、肉体的欲求が根底にあると主張する。 (3)ヨーロッパのニヒリズム 最後にヨーロッパのニヒリズムについて述べる。ニヒリズムとは、虚無主義であり、その立場は「真理・実在などを否定」し、「道徳や宗教の価値・規範を認めず、すべての権威・制度などを否定し、個人を束縛から解放しようとする立場」(『新選国語辞典』小学館、1993年)である。それは、近代科学が台頭してきた「しかたがない」帰結であり、あきらめにも似た楽観的思考である。一般にニヒリストとは、「無神論」的立場をとり、ニーチェ自身もまたニヒリストと自負する。その中でキリスト教は「神」の解釈の中に進むべき道を見出そうとした。しかし、このキリスト教的思考こそニヒリズムだと批判する。 神の存在の否定は、「これまでの一切の人間的価値の根拠が抹消されたことを意味する。近代哲学は、キリスト教的価値の代わりとなる者を打ち立てることができず、ただ、キリスト教的価値を変装させて生き延びさせたに過ぎなかった。そのために、近代哲学以降の諸価値は、そのニヒリズム的本性を露出させることになった」(A,p.135) 具体的にニーチェの代表的著作『ツァラトゥストラはこう言った』(ツァラトゥストラ:ニーチェの作り出した理想の人間像というべき主人公)を引用する。その中の「徳の講壇」に、真理を唱える賢者が出てくる。賢者の真理とは次の通りである。 「睡眠をうやまい、畏れるがいい! これが第一のことである。(略)眠ることは、決して容易なわざではない。そのためには、何しろ一日じゅう起きていなければならない。また一日に十回も、あなたは克己に努めなければならない。そうすれば快い疲労が生じるが、それは魂を眠らせる阿片なのである。(略)十の真理を、あなたは昼間のうちに見つけなくてはならない。さもないと、あなたは夜になっても真理を探し求めるということになる」。 「神と争うまい、隣人と争うまい。よい眠りにはそれが必要だ。そしてなお隣人のうちにひそむ悪魔と仲良くすることだ! さもないとこの悪魔は夜な夜なあなたをおびやかす。官憲をうやまい、服従しなさい。たとえ曲がった官憲あっても! よい眠りにはそれが必要だ。権力が曲がった脚で歩くのを、わたしなどにどうすることができようか?」。 これに対し、ニーチェことツァラトゥストラはこう答える。「彼の知恵はすなわち、よく眠るために、目覚めてあれ、ということだ。そしてまったく、この人生になんの意味もなく、私も無意味を選ぶことに落ち着くのだったら、私にとっても、これは最も選ぶに値する無意味というものだろう。」 (以下抜粋『ツァラトゥストラはこう言った』上巻pp.41-44、「徳の講壇」より) 2.これまでのすべての『価値の顛倒』と新しい『価値の創造』の思想 では、ニーチェが何を拠り所とし、人は苦悩に立ち向かい、生きるべきと考えたのかを述べる。 まず、「『神』は死んだ。『真理』や『道徳』は虚言である。世界には『目的』も『統一』も『意味』もない」とする。では「どのように考えて生きるか」と問う。ニーチェいわく、この問いに対して我々は二通りの答しか用意できない。一つは、「君は君の『苦悩』をルサンチマンの経路に向けて、時間への復讐へと、世界と自己の否定へと、また生それ自身の否認へといきつく生を持つこと」であり、もうひとつは、「君の『快楽』にかけてこの『快楽』のために生の一切を『肯定』し、一切の苦悩とともに『生よ戻ってこい』と呼びかけつつ生きること」もできる。そして「どちらをとるかは君の自由である」。これが「我々の生の姿」であり、ニーチェの言わんとする『永遠回帰』は、この後者である(以上A、p.182)。 しかし、キリスト教的立場は、「人間が何のために苦しんで生きるのか」に答える『物語』『虚言』を『真理』としてつくりあげることのよって、処理してきた」。つまり、「苦しい生のただなかに生きる人間にとっては、自分たちが『何のために生きているのか』、『何のために苦しんでいるのか』という問いの答えが、どうしても必要になる。それがうまく答えられるなら人は大きな生の苦しみに耐えうるからだ。逆に、この問いがまったく答えられないなら生は耐え難いものとなる。人間が長い間『神』や『道徳』や『心理』を信仰し、求め続けてきたことの根本理由はここにある」(A,p.168)。そこでニーチェは『永遠回帰』的思考を提案する。それは、「いつでも君の行為が普遍的に〈善〉であるといえるものであるように行為せよ」というカント的な命法の代わりに、「君の行為が、いつも無限の繰り返しとしてそう欲されるべきものとなるように行為せよ」(A、p.170)という「永遠回帰」的思想である。 「永遠回帰」とは自分にとって快も不快も受け入れ、快があるゆえに「生きる意味」を見出すことである。カントが「神=善」の客観を拠り所とする代わりに、ニーチェは自己自身を思考・行為の判断をそこにゆだねる。注意すべきは、「永遠回帰」は自己の中に二度と起きて欲しくはないこともすべて受け入れることである。そうでなければ、それは新しい「救済の世界像」(A,p.174)になるだけであるからである。 氏いわく、「『永遠回帰』はただ単なる物理学的宇宙論なのではない。ニーチェのつもりではそれは、ニヒリズムの徹底の果てに現れる『聖なる虚言』、すなわちこれまでとはまったく異なった新しい「価値創造」の原理でなくてはならない」(A、p.169)。 「力への意志」とは そして「いったいどのように考えれば『永遠回帰』の説そのような『価値創造』の原理へと転化するのか」(A,p.169)を考える。 @認識論の破壊としての「力への意志」 「力への意志」の思想を論理だてて見ていく時、まずニーチェ思想の根本的基礎として前述の「事実などは存在しない、ただ解釈だけが存在する」(本文P,1)をテーゼにおく必要がある。 キリスト教のいう「真理」について、『権力への意志』では次のように言われる。「一種の肯定が最初の知的活動なのである! はじめに『真なりと思い込むこと』ありき! それ故、どうして『真なりと思い込むこと』が発生したのかを説明すべし! 『真』の背後にはいかなる感覚がひそんでいるのか?」。 それに対してニーチェは次のように答える。「価値評価すること、それが、『認識』と呼ばれるものの基礎」であり、「無数の“解釈された世界”が存在すること、これが根源現象である」、と。そして、「生命体世界のありようを、自分の『保存・生長の条件』に応じて、また、『支配欲』に応じて」『価値評価』する」と(以上A、p.192)。 しかし、ニーチェの認識論はそこでとどまらない。認識論的な相対主義はただ、世界が何であるかについての『解釈』は人の数だけ存在し、従って絶対的な解釈なんてないと主張するにすぎない。そうではなく、ニーチェにとって重要なのは、「分かりやすく言えば、まずあらかじめ『客観』秩序があって、つぎにそれが生命体によって『認識』されると考えてはいけない。その代わりに、一方でカオス(混沌)として「原存在」がある。(略)そしてこの『欲望=身体』の『価値評価する原理』が始めて、カオスとしての世界を『何ものか』としての対象存在へ、何らかの秩序へ、つまり具体的な『生きられている世界』へと作り成すのである」(A,p.196)。 カントとの比較で見ると以下のようになる。 認識論において、氏の文を借りれば、「カントの考えでは、まず客観存在として世界があり、さまざまな生命体は“制限された仕方”でしか世界を『認識』できない。そして神だけが客観世界についての『完全な認識』を持っていると、いうことになる。これに対してニーチェでは、そもそも〈世界〉とか〈世界の秩序〉というものそれ自体が生命体による何らかの『解釈』(遠近法)によってのみ生成されるのだ、という考え方になる」(A,p.195)。また、「カント的な前提では、もし『神』がいなければ『客観存在』なるものも『客観認識』なるものとともに宙に浮いてしまって、世界の秩序というものをどう考えたらいいか分からなくなる。だが、ニーチェに言わせれば、まさしくカント図式から『神』の存在を“引き算”したものこそ、世界のあるがままなのである」(A、p.195)。 一方は、「神=客観存在」ありき、もう一方は「身体=欲望のみ」ありきの世界である。ニーチェの言う世界は当然カオスに満ちている。 A生理学としての『力への意志』 ニーチェは「力への意志」から生理学を組み直す。「まずいちばん最初に有機体の『器官の形成』という場面があるが、すでにそこで、『生長しようと欲する何ものか』がある根本的な『力』として働いている。生命体、有機体、動物の身体の形成、そしてまた身体器官、感官、知覚能力の秩序、そういった系の根本を貫通しているこの『何ものか』を『力の意志』と呼べばいい」と説き、『価値評価』の根源としての『力』から『生理学』をやり直している」(A、p.205)。 さらに言えば、「精神の全発達にあって問題なのは、おそらく肉体である。すなわちそれは、ひとつの高次の肉体がおのれを形成しつつあるということの可感的となっていく歴史である。有機的なものはさらにいっそう高い階段へと上昇してゆく」(A,p.209)。 B「価値」の根本理論としての『力への意志』 @、A、そしてルサンチマン思想から価値基準について総合し、ニーチェ理想の人間像「超人」の思想につなげて、理解する。 前述の「『神』は死んだ。『真理』や『道徳』は虚言である。世界には『目的』も『統一』も『意味』もない」とした場合、その上で「人間にとって無前提に「価値」だといえるものが存在するのか否か。言い換えれば、人間にとっての「よし悪し」の根拠といえるものが存在するのか否か」(A,p.212)。 これについてニーチェは、「ヨーロッパ人がおおきな誤りを犯したのは、「意識」を価値の基準とすることによってである。人間の『意識』は生の苦悩からルサンチマンを抱く。このルサンチマンから人間は、『ほんとうの世界』、『彼岸』、『絶対者』、『真理』、『客観』などの諸観念を“捏造”する」(A,p.214)。したがって「『価値』の根拠をキリスト教的ルサンチマンの『意識』とは違った場所に設定する必要」があり、そして、「『意識された世界』は価値の出発点として通用することはできない」(A,p.215)。すなわち、新たに本当の「『客観的』価値定位の必然性」があると説く。 『超人』とは(「新しい価値定位の原理」) そこで「どのような目標が最も人間の生と世界を強く『肯定』し、その力を高めるような目標となるかを考えればいい。ここに『客観的』価値定立の基準があるということになる」。それは突き詰めて言えば、「ルサンチマンをもたない『強者』、高貴な人間における『生への欲望』のありようを、」『最も強い、もっとも富める、最も独立的な、最も気力のある者』を、「人間一般の『価値』のモデルとすること」(A,p.217)、それが「超人」誕生のプロセスである。 補足するが、『超人』を目指すとは、決して金銭的な富や高位の地位を得ることではない。 C実存の規範としての「力への意志」 ニーチェは、具体的規範としての「芸術」を提案する。彼にとって、芸術は「私たちに動物的活力の状態を想起させる。芸術は、一方では、旺盛な肉体性の形象や願望の世界のうちへの溢出であり、流出である。他方では、高められた生の形象や願望による動物的機能の挑発である、――生命感情の高揚、生命感情の刺激剤である」(『権力への意志』)。彼は、直感としての「芸術」を愛する。ワーグナーの音楽に感銘を受けたのもまさにそこにある。 また、逆に真理は醜く、「私たちの宗教、道徳、哲学は、人間のデカダンスの形式」(同)であり、これに反対するのが芸術であると説く。 結び ニーチェは、『福音書』の「隣人愛」に代表されるキリスト教思想を真っ向から否定した。ツァラトゥストラにでてくる賢者もなるほど、ひとつの考えとしてよりどころとなるものだと心動かされる。しかし、現実にニーチェの思想が生まれ、現代社会でいずれ露呈しただろうニヒリズムの進行はとめようがない事実である。氏は、「これまでの『超越者』に代わる何らかの絶対的な理念を人々が渇望とする。(略)ファシズムとスターリズムという事態に象徴されるファナティスムの可能性は潜在的に存在している」(A,p.232)と危惧し、「このニヒリズムは先進国の消費社会に自覚されにくい問題を生じさせた。それは一方で、途上国、経済的弱者、ルサンチマンをもった人々による絶対的理念への渇望とそこからくるファナティスムの脅威、もう一方で、持てる者自足せる者における生の目標の喪失」(A,p.233)を問題にしている。 私はこう思う。ニーチェは、前述の通り、『救済の世界像』をつくりだしたわけではない。私にとって重要なことは、試金石とし今を生きる現代の思想を考えることである。この思想を頭の片隅に留意し、自分に即してその都度考えていくことが重要であり、研究だけではない実践の生きるヒントとしての哲学の本当の意味であろう。しかし、竹田氏いわく、「現代社会の思想の動向はまさしく反ニーチェ的状況といえる」(A,p.234)という。急速な科学進歩の中での現代思想を考えることが今後の課題である。 参考図書 竹田青嗣著『ニーチェ入門』ちくま新書、1994年 ニーチェ著『ツァラトゥストラはこう言った』氷上英廣訳、岩波文庫、1967年 ニーチェ著『この人を見よ』西尾幹二訳、新潮文庫、1993年 宮原浩二郎著『ニーチェ・賢い大人になる哲学』PHP研究所、1998年 |