ポスター芸術 

シェレとロートレック、そしてミュシャ

 

京都産業大学文化学部 国際文化学科 丸山 宗馬

 

18世紀末、イギリスより始まった産業革命は、19世紀に入りヨーロッパ各国に波及していった。それは民主主義萌芽の時代であり、帝国主義・植民地主義の時代、資本主義の時代の幕開けであった。ヨーロッパの国々は市民革命や産業革命を経て、その社会構造は大きく変化し、そして発展していった。機械工業技術、交通機関、情報技術、科学技術の発達はめまぐるしく、それにより経済活動はどんどん加速度を増していった。そうして大量生産・大量消費の時代が到来し、人々の生活形態は派手になる。特に都市部では享楽的な風潮が芽生え、デパートが誕生し、演劇・オペラ・カフェ・バー・キャバレーなどの施設が数多く建設された。それに伴い、人々の消費への欲望を掻き立たせるための様々な宣伝媒体が必要となる状況が生み出されてきたのだ。

そこで、人々に情報を速やかに伝達し、それでもって欲望を喚起する仕掛けとして登場してきたのが「ポスター」である。ポスターはそうした宣伝媒体の先駆けとして極めて重要なものである。当初のポスターは、商業や政治などの宣伝の役割を果たすこともさることながら、芸術的な面も重要視されていたようだ。実際、幾名かの芸術家たちは様々なポスターを手がけている。その時代のパリは、古き良き時代、いわゆる「ベル・エポック」と呼ばれる華やかな時代であり、ポスターという新しい媒体は、新しい芸術、応用芸術として登場し、街中を鮮やかに彩った。

今回のレポートでは、そのような近代ポスターの黎明期を、「ポスターの父」ジュール・シェレと、それを発展させたアンリ・ドゥ・トゥールーズ=ロートレック、そしてアルフォンス・ミュシャとアール・ヌーヴォーを通して探っていきたい。

 

1.シェレ ポスターの父

ジュール・シェレ(Jules Cheret 1836-1933)はパリに生まれた。1853年に二色刷りのオペレッタ「天国と地獄」の広告を、1858年に最初の彩色石版画『地獄のオルフェ』を制作する。商品カタログの絵を描く仕事の為にロンドンに渡り、印刷術の技術を学ぶ。1866年、イギリスから戻ったシェレは、イギリス製の最新印刷機を導入し、パリにある自分の印刷所で彩色石版によるポスターの制作を始めた。『ヴァレンティノ舞踏場』(1869)がその一例である。我々の知るポスターの形式は、ある二つの要素が合致したこの時点に端を発する。その二つの要素とは、改良により大量生産が可能となった石版画技法とシェレ自身の存在である。彼には色彩画家としての素質があり、デッサンの確かな能力があった。そしてイギリスで学んだ印刷術の技術を基礎として、彩色石版画の技術を芸術的に発展させた。人の目を惹かせるためのタイトルのレイアウト、字間、行間の字配りなどの活字デザイン、配色法、画面の省略、強調、躍動感溢れる生き生きとしたイラストなど、シェレによって築かれた初期のポスター・デザインの構成やデザイン・テクニックの基礎は、今日のグラフィック・デザインの基礎ともなっている。シェレはまさしく近代ポスターの黎明を告げた人物であり、その道のイノベーションを築き上げた人物であると言え、それら様々な点から、そのジャンルを確立した彼は、「ポスターの父」と呼ばれるに相応しい。ちなみにシェレは生涯に1000点以上ものポスターを制作している。

 

ジョン・バーニコートは、『ポスター芸術 その発展と変遷』の中で、シェレのポスターについてこう述べている。

「確かにシェレは石版画による本の挿絵を学んでいたが、ティエポロなど、巨匠の作品のような規模と様式が取り入れていた。しかし、よく知られたこれら2種類の源泉に第3の要素を持ち込んだところに、彼の真の才能の貢献がある。その要素とは、伝統的なデッサンに優れた画家としての確かな能力を、大衆的な能力で広めたことである。

シェレはサーカスのプログラムを飾る大衆芸術の視覚言語を取り入れ、熟練の石版画家としての経験を活かすことができるよう、その範囲を広げた。彼のポスターは伝統的技術と大壁画芸術への称賛をもたらしただけでなく、ポスターに不可欠な要素、つまり大衆的な表現感覚ももたらした。」(p.12)

 

シェレ以前にも言葉と絵で構成された様々な広告が現れたが、それらはポスターと見なすことができず、またサイズも小さい。それらの小さな広告の一つが、後にポスター技法の本質となる新しく単純なデザインのパターンの兆候を示すようになるのは、最初にシェレのポスターが登場してきた1869年になってからである。

公示を出すこと自体は長い歴史を持ち、その起源は古代にまでさかのぼる。だが、1477年にウィリアム・キャクストンが作ったイギリス最初の印刷広告のような作例により、この種の伝達手段が発展し始めたと考えるのがより現実的である。17世紀のフランスでは、許可なくビラを配ることが禁止されていた。1761年にフランスの広告版は、ルイ15世の命により安全のために壁面に対し平らになるように取り付けられた。これが広告掲示板やビルボードの先駆けとなるものである。

 

パリの一部は当時、再計画され、フランス革命当時からの古く、親しまれてきた多くの建物が取り壊され、そこには単調に画一化されてはいるが、大様式の都市が建設されていた。シャルル・ド・ゴール、バスティーユなどの広場を交差点とする放射状道路と城壁跡の環状道路を基礎に構成される。民衆の暴動などが起きた時、鎮圧しやすい造りになっていて、大通りや交差点はそれ以来、都市計画者たちに高く評価されている。シェレのポスターはそうした新しいパリの建物の飾り気のない壁の上に、活力に満ちた新しい芸術形態として登場した。多くの批評家や美術史家、作家たちはシェレの作り出す激しい色彩に目を奪われた。

1881年に成立した法律が多くの公的な場所におけるポスターの検閲を緩めた結果、このメディアは瞬く間に広まった。そして最も開かれた場所において、新しい様式が展開されることとなった。ポスターによって彩られた光景は、「街角の美術館」と呼ばれるようになり、巨匠シェレに続いてアルフォンス・ミュシャやアンリ・ドゥ・トゥールーズ=ロートレック、ピエール・ボナールなどといった優れたポスターの作り手が登場した。しかし彼らが登場するまでポスターの領域は、シェレの独壇場であったといえる。

1890年代にはポスターの人気は絶頂を迎える。パリ中がポスター・ファンと言ってもいいほどで、ポスターはコレクションの対象として追い求められるようになり、時にはコレクターにより壁に貼られたポスターが剥がされて盗まれたこともあったという。

 

2.ロートレック 世紀末の画家

アンリ・ドゥ・トゥールーズ=ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec 1864-1901)は南フランスのアルビに生まれた。生まれつき病弱体質ではあった彼ではあるが、幼い日の事故(あるいは先天性)により下半身が成長せず、そのことが原因で父親は息子を愛さなかった。そのため彼は(遠くはフランス王家にも繋がると言われる)名門貴族の長男として生まれながらも跡取りになることができず、そのことからか貴族社会の虚栄を嫌悪し、絵画の道に生きることを選ぶことになる。ロートレックは世紀末のパリを舞台に踊り子や娼婦などを主題に頽廃的な美を描き、また日本の浮世絵を独自の解釈で作風に取り入れていた。そしてキャバレー「ムーラン・ルージュ」(赤い風車の意)のポスター『ムーラン・ルージュ ラ・グリュ』(1891)で一躍有名になる。ラ・グリュというのは、ムーラン・ルージュで踊っていた踊り子の名前である。

かなりの女好き・酒好きで放蕩の限りを尽くした彼は、それが影響し、わずか36歳の若さでこの世を去った。早世のため彼のポスターは、わずか31点しか制作されていないが、その作品は鮮烈な印象を後世に残している。『悦楽の女王』(1892)、『ディヴァン・ジャポネ』(1893)などがあり、油彩『ムーラン・ルージュの踊り』も有名な作品である。

 

ロートレックが住んだモンマントルの地は、パリ市北部の一地区で、18世紀はただの田舎であったが、19世紀には画家や詩人、作家などが多く居住し、芸術家の街と化し、印象派・象徴派など近代美術の揺籃地となった。彼がパリに移り住んだ頃、モンマントルは盛り場として全盛期を迎えていて、夜の一大歓楽街としてカフェ・バー・キャバレーなどがたくさん軒を連ねた。そこには夜の街特有の倦怠感や淀みに満ち溢れていて、頽廃的な空気が流れていた。まさにそのような空気と、その中で刹那的に生きる人々との関わりが、ロートレックのイマジネーションを掻き立て、彼のその特異な芸術を育んだと言えるのではないか。まあ、もし彼が身障者ではなく、そのまま順調にロートレック家を継いでいたら画家になることもなく、貴族の社交界に登場していたことであったろうが…。

 

ジョン・バーニコートは、『ポスター芸術 その発展と変遷』の中で、シェレとロートレックの相違をこう比較している。

「ポスターがその性質上、視覚的な瞬間伝達形態を発展させてきたものであり、そこでは考えを単純で直接的に表現できる、ということを知った若い芸術家たちの間でシェレの影響は大きくなっていった。シェレのポスターは、いつの時代もその方向への第一歩として存続するのである。それらは確かに<世紀末>として知られる時代精神を伝えているが、<世紀末>をほとんど寓意的な架空の世界へと高めている。つまり、それらはポスターが現れた街の社会生活を、装飾によって説明しているのである。

対照的にロートレックは、シェレの作品の様式を強調しつつも、ポスターを街の住民の生活の中で起こったことを描写するのに使用した。シェレの弟子たちは、シェレの手法でモンマントルのキャバレーや家庭の情景を描いたが、ポスターの様式の発展にロートレックが果たした役割はそれ以上のものだった。ロートレックは自分自身の経験を主題とし、表現の手段としてポスターを使った。風刺、ユーモア、皮肉の要素や、単純で平面的形態や装飾的な線はすべてロートレックがポスターに用いることのできた工夫であった。それらは当時の絵画の慣習においてあからさまに表現できなかったことである。彼のポスターは、同主題の絵画や素描ではあまり見られない大きな影を特徴としている。この単純な表現は20世紀前半の多くの画家の作品に再び登場してきた。シェレはポスターを一つの芸術形式として確立しながらも過去の美術と関連付けたが、ロートレックはポスターの形式を強化しながら、絵画の将来の発展と関連付けたのである。

シェレは1889年にムーラン・ルージュ開店のポスター広告を制作し、ロートレックも1891年に同じムーラン・ルージュのためにポスターを描いた。そこにはティエポロの世界から近代的な画面への様式上の変化がはっきりと見て取れる。ロートレックはシェレの作品に秘められた大まかな図案の様相を誇張する一方で、その伝統的な要素を無視したようである。」(p.20-24)

そしてさらにスティーヴン・エスクリットの『アール・ヌーヴォー』ではこう書かれている。

エドモン・ド・ゴンクール曰く、

「かつてのパステル画家のなかに女性の微笑や快活さ、魅力といったものを表現しようとする意図が存在した。」(p.97)

「流行の芸術家たちは、霜焼けのようなピンクと重苦しい紫で、一人の女性の顔に示されうる混乱や困惑した心、そしてあらゆる身体的・精神的な病を表現したいとばかり望んでいる。」(p.97)

ゴンクールは、シェレを前者、ロートレックを後者に想定して言及しているらしい。

人々が豊かになっていったこの時代。豊かになるその反面、どこかに影を落とすのは世の常であり、豊かさというものは心の堕落も呼び込んでしまう。そこにデカダンスに見られるような頽廃的・懐疑的な世紀末思潮が生まれた。シェレが豊かさに象徴されるような光の部分を描いたのだとしたら、ロートレックは影の部分を描いたのだといえる。宣伝するという点だけを見れば明るい部分だけを描いていればいいのかもしれないが、例えば、影の部分こそが人間の本質であるとして、その部分をありのままに描くことが芸術的であるとするならば、それをしたロートレックのほうがシェレより芸術的であるといえるかもしれない。

快楽と喜びを目指すシェレのファッショナブルで軽快なポスターに対し、見る人によっては醜悪で不快であったロートレックのポスター、この間には相容れぬものが存在するようである。しかしシェレは『ムーラン・ルージュ ラ・グリュ』を見たとき、その作者ロートレックについて語り、彼がすでに大家であるということを認めたという。巨匠シェレは28歳年下のロートレックを同等のライバルとして受け入れていたようだ。

 

ロートレックのポスターは、魅力と不快感が半々だという。確かに彼のポスターは、絵画同様、悪意のある、しばしば挑発的な雰囲気を持っていた。しかしその「毒」こそが彼の魅力、華であるようにも思える。醜悪で不快というのは、一体どういったものだったのか。

ディヴァン・ジャポネ座でのショーのスターであったイヴェット・ギルベールについてこんな話がある。ギルベールは1894年、ロートレックにポスターの依頼をするのだが、その下絵を見た彼女は大変なショックを受ける。そこにはデフォルメされ、滑稽で驚くほど個性的な自分が描かれていたからだ。彼女はそれ以後、彼にポスターを注文することはなかった。「お願いだから私をひどく醜く描かないで!」という内容の苦情の手紙を送りつけたこともあったようだ。ギルベールとロートレックは、友人の間柄であり、芸術家としてお互いを認め合いながらも、妥協しあうことは決してなく、実際にはポスターが実現することはなかったのだ。

ロートレックは、自身が対象を歪曲させて表現する理由について、「醜悪なものが気に入っているわけでもないのに、そいつに面白半分の色艶で味をつけたり、円味をつけたり、ちょっと光らせてみたりするのが僕は好きなのだから…。」と述べている。

 

それにしても、油彩においても類まれな才能を持っていたロートレックが、何故タブローだけに留まらず、ポスターも描いたのか。それは謎に包まれているが、高津道照は、『ロートレックの謎を解く』の中でこう推察している。

「ロートレックが浮世絵から学び、その思想や技術を生かし得る場所はどこにあるのだろうか。それは油彩においてではない。版画に対しては版画である。彼は木版画から学んだ知識や感性を石版画に活かそうとした。ロートレックが日本美術との関係で最終的に目標としたのはただ一つ、西洋美術としてのポスターであった――。」(p.157)

「ポスターが成功すれば、それはヨーロッパ中で誰もできなかった洋画と日本画の橋渡しを行うことになり、世界でも最初の芸術的ポスターの出現を果たすことになるのである。それは西洋の驕りでもなければ、日本への追随でもない。矮小な一人の芸術家の、未知の造形を掴み取ろうとする静かなる挑戦であった――。」(p.200)

確かにこの時代のヨーロッパでは、パリ万博などの影響もありジャポニスムは流行していた。それは芸術家たちにおいても例外ではない。ロートレックもまた日本の浮世絵に影響を受けた人物(日本から浮世絵や筆、硯箱を取り寄せ、収集していた)の一人であり、作風にもそれがあらわれているものがある。上記の推察には、いささか飛躍しすぎな面もあるのではないかと思うが、とても面白く、興味深いものであり、確かに納得する面もあった。

 

3.ミュシャ アール・ヌーヴォーの華

19世紀末の最も特徴的な近代様式がアール・ヌーヴォー(Art Nouveau)であり、フランス語で「新しい芸術(Artは芸術、Nouveauは新しい)」を意味する。イギリスで展開されたウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動が発端とされる。純粋芸術だけでなく応用芸術にもわたるこの芸術運動は、植物的モチーフと曲線的フォルム、工業化社会を反映した装飾と構造の一致が特徴であり、それはポスター・デザインにも及んでいた。またアール・ヌーヴォーにおける日本美術の影響も無視できない。20世紀に入ると過剰な装飾性ゆえアール・デコなどのより機能主義的な傾向に取って代わられたが、近代デザインの先駆けとなった歴史的意義は大きく、また現代でも人気は高い。アール・ヌーヴォーを代表する主な人物は、建築家・デザイナーではマッキントッシュ、ガウディなど、工芸家ではガレ、ラリック、ティファニーなど、画家ではクリムト、ミュシャ、ロートレックなどが挙げられる。

アール・ヌーヴォーという言葉は、ドイツでは「ユーゲントシュティール(青春様式)」、オーストリアでは「分離派(ゼツェッション)」、イタリアでは「リバティー様式」、スペインでは「モデルニスタ」、そしてイギリスでは「モダン・スタイル」など様々な呼称を冠され、その多様な特質を明らかにしている。東欧や北欧の多くの国では、そうした傾向を持った工芸家や装飾家は、なんらかの国際的な様式運動に属していると同時にナショナル・ロマンティシズムの一翼を担うと捉えられていたようだ。いずれの場合も、この様式の解釈には「新しさ」という考えが結びついていた。それは新しい社会的発展、新しい技術、新しい精神の表出などを装飾的に表現していた。アール・ヌーヴォーはヨーロッパに広がっただけではなく、その現象はヨーロッパ人が行く先々で出現した。それはグローバルな様式となり、異なった担い手により帝国主義にも民族主義にもなり得たのである。

 

アール・ヌーヴォーの最も特徴的な例の一つがアルフォンス・ミュシャ(Alphonse Mucha 1860-1939)の作ったポスター作品の数々である。ミュシャは1860年、ボヘミア王国(現チェコ)に生まれ、1890年にパリに移り住む。淡い色彩によって魅惑的な女性達を描き流麗な装飾を施したそのスタイルは革命的であり、フランスのアール・ヌーヴォー美学の形成に決定的な役割を果たした。その作品は「アール・ヌーヴォーの華」とまで形容されたほどであり、世紀末のパリにまさしく咲き誇っていた。パリにいた時のミュシャの仕事は、一貫してアール・ヌーヴォー的な表現ということだけに終始している。

ミュシャが制作したポスターのうち最もよく知られた作品は、女優サラ・ベルナールと関わったものである。ベルナールは彼が初めて成功を収めることになるポスター『ジスモンダ』(1894)を注文した人物で、その美貌と卓越した演技で一世を風靡した大女優であった。ミュシャと彼女との出会いは、まさに運命の巡り会いだったといえる。50歳を過ぎ人気に陰りが見え始めていたベルナールだったが、ミュシャのポスターのおかげで公演は大成功を収め、彼女は再び喝采を取り戻すこととなる。ポスターは次々と盗難に遭い、増刷に次ぐ増刷を重ねた。ミュシャはパリで有名になり、ロートレックと並び称されるパリ随一のポスター画家という名声を得たのだ。ミュシャが描く艶やかな曲線は、「ミュシャ・スタイル」と謳われ、パリジェンヌたちはこぞってミュシャ風の様式美を身に纏った。

『ジスモンダ』の後、ベルナールと6年間の契約を交わし、『サマリアの女』(1894)など数多くのポスターをデザインした。ベルナールは自身の宣伝のためにミュシャの才能を利用し、ミュシャは自身の理想とする表現のためにベルナールを利用した。ベルナールとの仕事以外には、『ジョブ、煙草の巻紙』(1897)のポスターなどがあり、装丁、パッケージ、ジュエリー・デザインの原画も手がけた。

 

「ミュシャはそれまでのポスターに見られたような派手で刺激的な色を避け、落ち着いた色使いをしました。また、絵の主人公を何らかのシンボルとして神秘的に描いたのです。つまり、単なる広告でしかなかったポスターを芸術の域にまで高め、それがインテリたちの興味をひき、称賛を浴びたのです。」(テレビ東京『美の巨人たち』での研究者によるコメントより)

 

ミュシャがベルナールのニューヨークへの巡業に同行した際、彼の作品は世界の別の地域にも紹介された。彼のデザインは非常に極端であったため、様式としてのアール・ヌーヴォーが1920年代になって一時的に大衆的な人気を失墜するようになると、ミュシャの名も忘れられてしまう。ちなみに彼は1910年にプラハに戻り、その後はそこで『スラヴ叙事詩』などの絵画制作に専念し、スラヴ人の民族意識の高揚を目的とした。彼のプラハでのキャリアは、アール・ヌーヴォーと象徴主義の黄昏を代表している。

 

スティーヴン・エスクリットの『アール・ヌーヴォー』では、ミュシャについてこう言及している。

サラ・ベルナールの名は、ミュシャが描いた、彼女が主演した一連の芝居のポスターを通して、パリのアール・ヌーヴォーにおける過剰なエキゾティシズムやエロティシズムと同義と受け取られるようになった。『ジスモンダ』のようなベルナールの芝居のポスターで、ミュシャは彼女を大胆に様式化された姿で描いている。ベルナールの流れるような衣装は、ポスターという二次元的な印刷メディアの特質を最大限に活かしたミュシャの複雑で詳細に描き込まれた線的な様式にぴったりだった。1890年代半ばのパリの公衆にとって、ミュシャのイメージは独創的であると同時に魅力的であり、彼の描いたベルナールの姿は、理想化された世紀末の女性像を普及させた。

現実のベルナール自身がこの夢のようなあり方と一体化するためには、ある種の芸術的な変形を必要とした。『サマリアの女』(1894)のポスターで、ミュシャはベルナールの流れる髪を中心的な装飾モチーフとして用いている。それによって彼はうねるような線と曲線を思う存分展開することができたのであり、もし硬く黒いベルナールの本当の巻き毛をそのまま描いていたとしたら、そうした表現は難しかったであろう。ミュシャのポスターの多くはまた、ベルナールの体を引き伸ばして書いている。実際、彼は世紀末の理想を満たすために、別のモデルをもとに描いた体にベルナールの頭部を組み合わせているのである。」(p.101-102)

サラ・ベルナールはその身をもってアール・ヌーヴォーを体現した人物であり、この運動の象徴的存在であったといえるが、彼女はアール・ヌーヴォーの典型的な矛盾をよく示している。彼女は当時、パリで最も有名な女優として成功したキャリア・ウーマンであり、その仕事上のキャリアにおいて、「新しい女(家庭的な性質や従順さ、女性的な美といったステレオタイプ化された観念の否定を表していて、外に向けて出て行くアクティブな女性という意味)」の特質を体現した。しかし同時に彼女は、批評家や芸術家が女性本来の優雅や美といった当時の有力な理想を表現するための素材となったのである。とはいえ、社会における女性の位置付けに対する関心は、フランスのアール・ヌーヴォーに反映されている同時代の多くのテーマの一つに過ぎなかった。

 

ミュシャは反合理主義的な神秘主義へ傾倒していたようで、そのことについてエスクリットはこう書いている。

「19世紀末には夢や無意識に対する関心がとりわけ強かった。こうした関心は、反合理主義的な神秘主義にも神経病理学や心理学といった新しい学問分野にもともに見出される。双方の世界に対する深い関心は、アール・ヌーヴォーの図像にあらわにされている。ミュシャは同時代の多くの人々とともに、秘教的な哲学、オカルト、降霊術や催眠術に対する関心を抱いていた。オカルトに凝る一方でミュシャは、フリーメーソンにも関係していた。

こうした反合理主義的な傾向は、ミュシャの作品のいくつかにうかがわれる。彼のポスター(『ジスモンダ』、『サマリアの女』など)の人物像はしばしば装飾的背景に光輪のようなオーラを冠した姿で描かれ、宗教的な外観が付与されるのである。さらに明白な例をあげれば、ミュシャが制作した『主の祈り』の1899年版の表紙には明らかにフリーメーソンとユダヤの7つの象徴が1つ1つ星のなかに表されている。このような明らかに非キリスト教的な表紙を『主の祈り』のために制作するということには、世紀末の芸術界に見られた宗教に対する折衷的な態度が典型的に表れている。」(p.103-104)

ミュシャの幻想的な世界は、宗教的な枠にとらわれず、東洋の神秘主義、古代ユダヤの神秘主義などが混ざり合い融合した結果、誕生した。ミュシャの作品が醸し出すエキゾティックかつエロティックな雰囲気は、そこに由来するのだろう。彼の表現はまさにアール・ヌーヴォーの極みであるといえるだろう。

 

4.まとめ

ロートレックやミュシャのことをテレビで見てその存在を知るまでは、ポスターというものは大衆の欲望を喚起するためのメディア・ツールぐらいにしか思っていなかった。もし興味を持たなかったら、たぶんこれからもそうであっただろう。しかしポスターを芸術として調べたことにより、それが芸術たりうるものだとわかったし、人を惹きつけるためにはあるべきであり、またそうでなくてはならないのだと感じた。

今回調べた3人、「ポスターの父」と呼ばれ、明るく軽快なタッチのシェレ、頽廃的な美を表現したロートレック、アール・ヌーヴォーの美の極致であるミュシャ、彼らの作品はどの人をとっても個性的であり、一人だけ見てもひとつのレポートのテーマにできる。この中でもとりわけロートレックは、その人生においてもとても個性的でスリリングなもので、それが作品にもさらに魅力を付け加えている。

最後に、今回、ポスター芸術というテーマでレポートをまとめたが、近代的ポスターの誕生から19世紀末のアール・ヌーヴォーのポスターまでをやったにすぎない。アール・デコ、キュビスム、シュルレアリスム、ダダイスム、バウハウスなどまだまだたくさんのテーマがあり、ポスターというものが幅広く、奥深いものであると感じた。次回は、ポスターと社会の関係などについても調べてみたいと思う。

 

 

参考文献&WEB

ジョン・バーニコート著、布施一夫訳『ポスター芸術 その発展と変遷』洋販出版 1994 

アーサー・シモンズ著、森藤真成訳『ロートレック ―世紀末の芸術―』踏青社 1993

高津道照著『ロートレックの謎を解く』新潮社 新潮選書 1994

スティーヴン・エスクリット著、天野知香訳『アール・ヌーヴォー』岩波書店 2004

幻想美術館 http://www.fantasy.fromc.com/art/ 

テレビ東京『美の巨人たち』 http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/

アルフォンス・ミュシャと永遠の名作たち http://www.h7.dion.ne.jp/~mizore/