プラトンとイデア論

京都産業大学文化学部  池田 大資

 

第1章  プラトンとは?

1.1   プラトンの生立ち、 時代背景

第2章  イデア論とは何?

2.1   それは何か?

2.2   研究者は、どう見ているのか?

2.3   それで何が当てはまるかのか?
2.4   どういうことがイデアに当てはまるのか?
第3章  プラトンの洞窟の比喩って何?

3.1   洞窟のお話

3.2   研究者からの視点はどういう風に見てるのか?

3.3   具体的に研究者は、何を説明しているのか?

3.4   洞窟の比喩について自分なりに考える

第4章  終わりに

4.1    プラトンについての私のコメント

4.2   イデア論は、具体的にどう考えるものなのか?

4.3   哲学を勉強して来た、私の感想

 

 

 

はじめに   卒論の狙い

 

 私がこの論文で説明することは、プラトンのイデア論の説明である。イデア論とは、一体何か? 参考文献を元にしながら読み進めたいと考える。それとこの論文を読まれる方が、少しでも哲学に興味を示してくれるならば幸いである。

 

第1章 プラトンとは? 

1.1 プラトンの生立ち、時代背景

 プラトンを研究する上で最初に必要なことは彼の生立ちと時代背景である。哲学者により同じことを言うにも視点を変えて話しているのは、わけがあるのである。それは、それぞれの時代に生きた哲学者は、必ずと言ってよい程、その時代の影響を受け、そしてその人物が影響を受けた人間、出来事に思想というものは、反映されてくるからである。プラトンの場合は、典型的でわかりやすい例である。

 ソクラテス、プラトン、アリストテレスの順番になるが、プラトンは、師ソクラテスから影響を受けて、その後にアリストテレスの思想に影響を与えているのである。彼らの思想を知る上で少しでも、当時の時代背景と彼の生立ちについて知ることは、後の具体的な、思想を説明する上で大きく役に立つのである。

 下記にほんの触り程度であるが、プラトンについての引用文を抜いてきた。

「プラトンは、ギリシャの哲学者、西洋において学問としての哲学の伝統を初めて確立し、アカメディアと呼ばれる学園を創設して古代最大の学派を形成。その哲学思想は、西洋哲学に影響を及ぼした。」

「プラトンは、ギリシャのアテナイに生まれた。父アリストンと母、ぺリテォネは、いずれもアテナイの名門の出であった。プラトンは、シチリアと南イタリアを数回に渡り旅をし、またある言い伝えでは、エジプトへも旅をしたと言われる。それを除けば全生涯をアテナイで過ごした。彼の青少年時代については、確かなことは、ほとんど知られていない。ただ、アテナイの名門の子弟が受ける、最も優れた教育を受けている。彼の並々ならぬ才能は、政治あるいは、悲劇やその他、さまざまの詩の創作に振り向けられたが、ソクラテスとの出会いがプラトンの人生航路を変えてしまった。アテナイの若者の心を動かさずには、おかなかったソクラテスの探求の方法や議論は、プラトンの心をもしっかり捉え、こうして彼は、ソクラテスと親交を持つようになった。ぺロポネソス戦争終結後の政治情勢は、プラトンにとっては、耐え難いものであった。プラトンの母のイトコに当たるクリティアスは、戦勝国スパルタの勢力と結んで権力を手にした30人政権の指導人物で、この一群の人々は、みずからの政権を維持するための方法として、できるだけ多くのアテナイ人たちを自分達の残虐な行為に巻き込むという手段をとった。かくして、プラトンのソクラテスの弁明において知られるように、ソクラテスもまた、ある男を捕らえて刑の執行の為にサラミスからアテナイへ来るように命ぜられた。偉大なる師ソクラテスは、この命令を拒否し、その生命が危険にさらされた。まもなく30人政権が崩壊し、民主体制が復活することによって、ソクラテスの命は、からくも救われるようになったのである。

……30人政権の目的とそのやり方に嫌悪感を覚えていたプラトンは、民主政体の回復を喜んで迎えた。ところが、その後4年ほどして、ソクラテスが冤罪で裁判にかけられ、死刑を宣告されるに及び、気まぐれな民衆に対するプラトンの不信は、更に深まった。(ソクラテスの弁明でわかるように、プラトンは、裁判には、居合わせていたが、あの毒人参の杯が師ソクラテスに与えられたときには、立ちあわなかった。しかしながら、彼は、その時の情景を『パイドン』の中で、鮮やかに、感動的にきめ細かく書いている。

……かくて、プラトンは当時のアテナイの政治にすっかり嫌気が差してしまった。もはや政治に関しては、積極的に参加する意思は、見せなかった。だが、実際は、友人達をとおして、シチリアの都市国家、シラクサにおける政治の命脈に影響を及ぼそうと試みている。」

 

途中であるが、切りようがないほど長く そして、プラトンの周りの人間関係の紹介や、著書の紹介などきりがないほど長いので、プラトンの生い立ちや時代背景が、簡潔に書かれているこの部分までにしておく。

(世界伝記大辞典から、上記抜粋)

 

 プラトンが生きた時代というのは、現在と違い、様々なシステムが出来上がり始めた最初の頃である。プラトンは、法治政治ではなく、哲人政治を志したのかもしれない。しかし、議会民主制の中では、道徳の観念からものを考える人物は、愚かな大衆を動かす指導者には邪魔で危険な存在であったのでソクラテスは、死刑を言い渡された。多分、同じことを師の後に続いてしていれば、彼も殺されているだろう。合理的でまとめやすい議会制民主主義と哲人政治は、全く性質を異にする。ソクラテスの問いであるような、偉い人も無知を知れという、階級差別をさせない考えは、議会制民主主義の中では、激しく嫌がられる。プラトンが、一度は、政治に参加しようとするも、嫌気が差したのは、現実的には、道徳や哲学を主体にする政治思想は、階級差別をする人達には、邪魔な観念であり、そういう人達に迫害されて嫌気が差してしまったのだと考えられる。推測の一つにすぎないが、哲学者の時代と背景を調べることは、その哲学者の人生や考え方が、なぜその方向に向いていたのか? それを裏づける仮説を立てることができるのである。

 

第2章 イデア論とは?

2.1 それは、何か?

 イデアとは何なのだろうか? まずは、色々な文献の抜きだしから考える、イデアの定義、世間ではどう解釈されているのか? 複数の文献から共通の定義を見つけ出す。そこから見つかる問題点の列挙複数の共通部位でなかった個所からイデア論の著者の考えにせまる。

(イデアとは?) 物の本質、真理、全ての中で真なる実在である。

 

2.2 研究者は、どう見ているのか?

「まず真理の本質について考える。(真理)とは、何か?(それは何かと?)という問いに対する答えは、我々を事象の本質へともたらす。(机)とは、何か?(山)、(海)、(植物)とは、何か? その都度(それは何かと)と問いつつ、我々は物の本質を問う。我々は、問うが、しかしそれらをやはり既に熟知している。それどころか、それが何であるかをその後で問い、その上さらに答える為に我々は既にそれらを熟知していなければならないのではないか? つまり例えば、机とは何か? それは、まさに机を机にするもの、机であるあらゆるものに帰属するものである。すべてのものが相互に共通に持つもの、あらゆる現実的な机とすべての可能な机に共通なものは、普遍的なもの、(本質)である。つまり或るものが(普遍的に)それであるものである。このすべてに共通なものを我々が見出すのは、やはり、我々が個別的なものを比べ、同一なものとしてそれらに共通に属するものを観点として個別的なものを見て取ることによってのみである。我々がそれらの(本質)を問う場合、個別的な机、そしてあらゆる種類の個別的な物を、我々は既に熟知している。それ故(真理とは何か)という我々の問いにおいても同様なのか。(この(それ故)は、以下に示されている、不幸な運命である。)真理の(本質)とは、如何なるものなのか。これらは(個別的な真理)である。我々がこれをそう名づけるのは、これらが(真なるもの)を含んでいるからである。では、何の内に真なるものが(含まれている)のか。この真なるものをいわば(備えているのは、何か。)それは、我々がまさに言い表す陳述である。あらゆる個別的な陳述は真であり、(真なる或るもの)、(一つの真理)である。我々は今、真理一般とは何か? 真理は、普遍的に何かと問う。上で言われたことに従って言えば、これらの陳述の各々を真なるにするものは何か? それは、陳述が言うものの内で、陳述がそれについて或ることを言う事象と事態に、陳述が一致する事である。その陳述が真であることは、このように一致することを意味する。それでは、真理とは何であるのか。真理は一致である。このような一致が存立するのは、陳述がそれについて言うものに自己を向けるからである。真理は、正当性である。従って真理は、正当性に基づけられた事実との陳述の一致である。」(ハイデッガー『真理の本質について』3,4ページから抜粋)

 

2.3 それで何がわかるのか?

上記の文章に対し私は次のように考える。

机の例えがあるように、机を机たらしめる事実、真実である陳述がそれについて或ることを言う事象と事態に陳述が一致する事である。陳述が真であることはこのように一致することを意味する。それでは、真理とは何であるのか。真理は一致である。机には、机であるという事、その事象と事態に、あれは、机だねと言う事と、それが机であること事態が一致すること、その事実が真実であると言う意味である。著者の上記抜粋個所に対する論評に対する私のコメントで机が机であると形容される事実、それは、当たり前に思える。論理的に言えば机があり、机であるという事、それ事態が真実であるというのは、論理的に間違ってはいない。しかし、私は、机たらしめる要素、内在するべきものが、そこに備わっているからこそ、それが机であると私は考えている。机という形のものに内在する何かがあるからこそ、それは、机であり、机と陳述した時と机である事が噛み合うのだ。それが真実であると、私は、考えている。

筆者が考えた真実と私が考えた真実の相違について、私が筆者の意見から汲み取り考え付く事は、一つである、それは、上記にも記した。

つまりここで机を例にとった真実についての考えが2つでてくる。1つ目は、真実を真実たらしめることは陳述がそれについて或ることを言う事象と事態に、陳述が一致する事である。陳述が真であることは、このように一致することを意味する。それでは、真理とは何であるのか。真理は一致であると一致こそが真実であると書いている。

2つ目は、私の見方では、机が机である真実とは、一致でなくて机が机として存在、机として内在できうる事ができる事が真実である。この2つの相違点は、机を認識してそれを叙述する事による一致が真実である事、もう1つは、机の内在するものに焦点を当てる事によりそれが存在できうるだけの真実である。2つの考え方が出て来たがこれは、多分、同じ事象に対しても見る見方、問題の切りぬき方が違うのでこういうような結果が出てきてしまったと考えられる。

つまり、机の真実性を検討するについても色々な見方ができるのだ、多分、この論について10人いれば10人とも違う見方をすると考えられる。しかし、こういう点からわかる事は、私達がこのような同じ議題を見る事によって様々な見方ができる事は各個人の経験と言う網膜を通す事により導き出される結果である。イデアとは、序章で本質であると述べたがそのとおりである。何故か? このような議題を考える上でもこの上記の机の記述については、本質である普遍性が存在しているからこそ我々は、これらから、色々な情報を読み取り、それをあれこれ考える事ができるのだ。私は、むしろ物事のイデアとは、真理ではなく、真実でもない事実でもない普遍性であると考えられる。

 

2.4 どういうものがイデアに当てはまるか考える

 マニュアル、システムなど。

何故かといえば、マニュアルとは、普遍性があるからだ。誰がしても、同じ目的をある程度達成できるからだ。これらの元には、普遍性と完璧な像がある。なぜならば、人により効率性や、上手さが違うが、これは、誰に対して生じるものであり、上手くなれば、それがより効率的になる、それは、完全性により近くなるからである。もし、それらにイデア、そのマニュアルの完全性がなければ、それは、同じ目的の元に様ざまな人がしても全く違うものになってしまうであろう。誰がやってもある程度、近似値的な成果が現れるのは、これらに普遍性と完全性があるからである。完全性があるからこそ、無意識のうちにより効率的な動きをみつけてより合理的な行動、動きができるのである。

 

武道などの型について

人間は、無茶苦茶には、行動できはしないし、腕を振ったりすることすらできないその証拠にあらゆる格闘技には、その無形の型がある。私が、長年している、合気道にかんしても、最初は、全然できないもので無駄な力がかかってしんどいが、何年もしていると、自然に体が動くのである。むしろ、無茶苦茶に体を動かすことができない、あくまで、自然に身についた型を行使してしか能率的に動けないのである。このようにただ、何かを打撃するだけにかんしても、外からは、ただ殴りあいにしか見えないが、そこには、本人にしかわからない、あらゆる効率的な動きが頭を無意識に働かしていて、その無形のイデア、完全なる型に近い動きに沿い現実的に手や足を動かしているのである。こういうもの型に関しても、誰がしても経験を積めば、同じような動作になってくる、これは、やはり、イデアがあるからである。

 

世界の構成について、イデアがあるか?

それは、あると考える。上記2つのようにイデアがないものは、成り立たないからある。目的地や目的を決めずに人間が行動できないことと同じである。その場合は、我々は、動きを止めざるを得ない。全てのことが、進むようになりたっているのは、それに付随するものにより、何かに到達していくからである。つまり、物事が前に進み、あらゆるものが進化を繰り返し高度になっていくのは、世界のもともとの原点にあったものが、その原点から終わりに向かう為に変化して目的を遂げる為の通過点なのだ。その通過点が人間やあらゆる生物の生きている過程であると考えられる。その流れに巻きこまれているからこそ、全てのものは、移り変わるのである。世界にかんして言えば、あらゆる所にイデアがあり、その本質に実在、時間とともに移り変わる普遍性が備わっているから世界は、移り変わるのだ。変化とは、始まりから終わりの目的による通過点であり、イデアとは、それを目指す為の方向性である。私が定義する、イデアとは、普遍性と方向性を持ち何かをする時に目安となる完全な形である。我々が、全てのものを目で認識できるのは、脳の中にその型と一致できる何かを備えているからである。もし、この何かがなければ、我々は、鉛筆を見てもそれが何かがわからないであろう。それが、イデアであるのだ。三角形を紙に書いても誰もが三角を描けるのは、脳の中に三角形の完全な形、イデアがあるからである。

 

第3章 プラトンの洞窟の比喩とは?

3.1 洞窟のお話

洞窟への自由なものの帰環

「地下の洞窟状の住居における人間の姿を思い浮かべてなさい。この住居は、日の明るみに向かって上方に洞窟全体に伸びている入口を持っている。この住居の中で、人間達が子供の時から足と手を拘束されている、それ故、彼らは、同じ場所にいて、彼らの前にあるものだけを、手前に在るものだけを見ている。頭をぐるりと回すことを、束縛により彼らは、できない。しかし、明るみは、彼らの後ろから、つまり上方はるかに燃えている火から来ている。しかし、その火と束縛されている者たちとの間、つまり彼らの背後上方に1本の道が走っていて、それに沿って壁が立てられていると想像してみなさい。その壁は、手品師が観客の前に立てて、その向こうで手品をしてみせる衝立のようなものである。

……わかりましたと彼(グラウコン)は、言った。では、この壁に沿って人間達が種々の道具を突き出していると想像しなさい。それには、もちろん、或る人々(運んで行く人々)が話をしておりまた他の人々が沈黙しているということが属している。君は、奇妙な囚人を提示しますね。我々、人間に似ているのです。というのも考えてみなさい。そのようなものは、差し当たり、自分自身に関してもまた、他人に関しても火の輝きが彼らの向かい側にある洞窟の壁に投げている影しか持っていない。

……しかし、彼らが一生涯頭を動かさないように強制されているのであれば、どうして別様でありえましょう。しかし、彼らの後ろで運ばれている道具について、彼らは、何を見るであろうか? 同じもの(つまり影)では、ないか。そうでなければ一体何を見るのでしょう? 視て取られたものについて彼らが互いに話合うことができるなら、自分達が見ているものを有るものと思うと、君は考えないか? 必ずそうです。しかし(彼らの後ろを)通り過ぎる者の一人が話すたびに、彼らが眺めている向かい側の壁からの反響を、牢獄が持つならば、どうだろうか。列になって通りすぎる影以外のものを、語っている者と彼らが思うと、君は考えるか。ゼウスに誓ってそのような事は、ありません。」(プラトン『国家』からの引用)

研究者からの視点は?

「人間の状態は、このような状態にある人間が何を非秘蔵的なものつまり真なるものと見なさなければならないかを示す為に、描写される。像の消尽点は、真なるものであり、そして今叙述された喩えの個別的な特徴を真なるものという観点からなおより明白に言わばなぞる事が肝心であり、非秘蔵的なものに関してこの描写が含むものを全てより詳細にまとめることが肝心である。この人間の状態が奇妙なままであり、この人間自身が風変わりであるにしても、人間は、またこの状態においても、既に(真なるもの)非秘蔵的なものを持つ。プラトンは、人間が一つの非秘蔵的なものを持つ、と言うのでなく、非秘蔵的なものそのものを持つ、と言う。これが言おうとするのは、人間が子供の時から既にそしてその本性に従って非秘蔵的なものの前に立たされている。という事である。個別的に非秘蔵的に自己を呈示するものがその際その都度何であるかが、第二の問いでである。洞窟の中でのこの奇妙な状態においてすら、人間はいずれにせよ、自己に閉じ込められ、他の全てのものから切り離された存在者でも、単なる自我でもなく、(人間の前にあるものへ方向づけられている) つまり真なるものへ方向づけられている。既にこの比喩の端緒に潜んでいるのだが、人間である事に、非秘蔵性の内に立つことが属している。つまり真なるものの内に、真理の内に立つ、と我々は言う。人間であるとは、たとえ状態が奇妙だとしても、それだけではないがしかし、なかんずく、非秘蔵的なものを関わり会う事を意味する。

 そしてまさにそれ故に、何がそこでこの状態において人間に非秘蔵的であるものなのという問いが生じ得る(誰によって立てられるのか)。その答えは、人間が直接的に関与なしに、それがまさに示すように、自己の前に持っているものである。それ故ここでは、人間の背後にある火の輝きの内で、人間の前にある壁に物がなげかける、物の影である。しかしこの非秘蔵的なものの特徴づけは、ただちにより詳細な規定を必要とする。」(ハイデッカー全集第34巻、『真理の本質について』プラトンの洞窟の比喩と「テアイテトス」から抜粋)

具体的に研究者は、何を説明しているのか?

洞窟の囚人と我々の自己との相関関係について述べている。そして、それが、どんな自己の方向づけをされているかなどを形而上学的な観点からわかりやすくかかれている。人間とは、非秘蔵的であるものなのか? 人間存在からそれについて考察している

 

3.4 洞窟の比喩について自分なりに考える

上記の筆者の考えについての私の考察

上記の見解については、我々、人間は、自己というものがあるので真実が見えないようになっていて、真実が隠されているから認識できないというような事を上記で説明している。真なる実在に人間は、引かれて行くものであるが、その真なるものの実在は、実は、隠されていて見えない、死角になっているが為に見る事ができないという意味である。

洞窟の喩えは、我々人間が縛られているので首を回せないと言う悲惨な状況を表したい喩えであると私は、考えている。私達が見ている世界というものは、(いわば、壁にうつる影である)それが真実であると思い込まされているからであるのだと考える。

 

第4章  終わりに

4.1 プラトンについての私のコメント

難しいことを問いに考えたなと私は、考える。おかげで、この卒論を作成するにあたり、色々な文献を読み下す時に頭が痛かった、答えのでない、極めて形而上的な問いを作らないで欲しいと一時、願ってしまった、それほどまでに深い内容なのである。

 

4,2 イデア論は、具体的にどう考えるものなのか?

2章あたりで考察したが、普遍性があるもの、目的を達成する上での指針、ビジョンなど無形であるが、何かをする時に個々人が頭に思い浮かべている像などである。

 

4.3 哲学を勉強して来た、私の感想

 普段、私達は、何も考えずに生きている、もしくは、日々の生活におわれている。哲学とは、人間とは、何かを考える上でかかせない問いである。その問いを様々な哲学者が彼らなりの頭や経験をつうじて、様々な解釈をつけているのである。もともと、形がない普遍であるもの、問いこそが哲学なのである。かなり難しいなと私は、思っている。なるべくなら私は、経済で物事を割り切る方が好きである。しかし、たまに人間存在を考える文学少年であってもいいかなと最近考えている、哲学を勉強した上で私の内面の中にもなんらかの痕跡が、残っていると思う。そう思うのは、ものの見方や感じ方について、この学問を学ぶ前よりも進歩があったであろうと期待しているからである。

 

最近までの研究経過報告(少し重複する部分もあるが)

そもそもイデアとは、真なるものである。それは、私達が、物を認識できることと関連性がある。その関連性とは、例えば、私達が、三角という図形を書きなさいという問いに関して三角を描けることは、頭の中に三角という完全な像がある為にそのイメージを適用してから現実に腕で三角を紙なりに書くことができるという一連のものが上げられる。私は、卒業論文でその仕組みを明らかにしている。例えばこれにあてはまるものとしては、社会のシステムなどであると考えられる。それは、どういうことか?

 私達が、様々な概要を理解することができることは、その概要を完全に理解できるイデア(型)があるから理解できるのである。色々なシステムについて概要を理解できること理解の度合いに関して言えば、その個人個人の経験などにより異なるのである。しかし、あらゆる人間が数学のような答えが一つのものに対して、同一の答えが出せるのは、数学の答えについて完全な答えがあらかじめ存在しているので、それを、決まった法則で鉛筆を動かせば結果論的に出せるのである。これは、もし、その数学の答えについての完全性、イデアがなければ、答えは、形而学上出来ないことになるのである。

 このイデアというのを平たく言えば、共通認識のように目には、見えないが自然に何故か認識できているものなどである。イデアがある(完全性が成り立つものがある)からこそその完全性を一つの型として理解する完全性があるものにより理解ができ得るのである。

イデアというものをコンピューターの構造に起きかえて考える。コンピューターが人間と違う所は、言われたままに動くが自分で勝手に進化する自律性がないところである。このコンピュータが色々なプログラムを後から打ち込んでいっても応用が効くこと、この点にかんして言えば何故応用が効くかが焦点になるのである。

 応用が効くことは、そのコンピューターが後から打ち込まれたプログラムにかんしての、概念を理解する、ベース(イデア)を伴っているからである。この概要を理解するということがイデアである。人間の行動について考えるならば、人間の行動を決定づける要因は、その人間が育った環境要因から次はどうするか選ぶ思考、他、本人の純粋な経験から来る思考、他、人間の本能的な生きる、自己保存をする為に次はどうするかという思考が組み合わさっている。だから我々は、生きているのである。これが個人の人格を形成する要因である。というより本質である。他、家族や周りと関わらないと我々は、生きていけないのでそういうものにも影響されているとも考えられる。

ここにイデアがあるとすれば、本人の純粋意思がイデアにあたると考える。この純粋意志がなく周りに流されて自分の人生を決定している人々がほとんどであるが、純粋に個人の人生というものを決定づけているのは、その人のイデア、本質が時の経つにつれて現実として具体化しているから、その個人の人物は、自己実現、社会の中での自分になると考えられる。そういう固有のなんらかのものがなければ、みんな同じ人間になるはずである。こういうことから個人にもその人なりのイデア(本質)があると考えられる。

細かいところにもその個人を個人足らしめるイデア(本質)が隠されているのである。それは、その人の好みなどである。個人について当てはめるならば、遺伝子も関係あるかもしれない。こういう、認識をするという観点から考える、イデアと何かをその固有のものに決定づける要因(本質)もイデアと言えるのである。他、イデアを完全性と言う、相対的な基準から考えるならば、美しさなどである。これには、イデアがないように見えるが実は、あるのである。この場合美しいから完全性があるのでなく、美しいものは、その美しさを現す完全性があるからこそ存在しており、醜悪なものは、醜悪なものの完全性があるからこそ、醜悪さとして存在していられるのである。

私が、研究して来たことは、イデアを、認識の点から考えてどういうものが当てはまるか?美のように相対的な価値基準にさらされるものを題材にしてからのイデアの2通りである。多分、イデアという概念を用いてそれを認識という観点から流用するならば、コンピューターなどの初期の設定などどうすれば、無機物であるものにものを認識させるかという概要に結びつくと考えられる。

 

参考文献

『真理の本質について』ハイデッカー全集、第34巻、創文社

『世界伝記大辞典』