文化についての考え方


文化という概念をどうとらえるかが議論の初めになければならないだろう。その概念に帰属するいろいろの要素なり、性質を現象的に考えて見よう。 現象といってもわれわれの日常生活においての問いかけがまず初めになければならないだろう。すなわち、生活文化の視点で、文化について、考えを巡らしてみようということである。

社会心理研究所の南 博氏は「生活文化といえば、主に衣食住を中心に狭く考えがちであるが、ここではその範囲をひろくとって、九つの分野にわたるものをとりあげてみた。それによって食生活と交際生活とのつながり、家庭生活と労働生活の関わりあいなど、一つの生活分野の変化が、他の分野とどう関連しているかが明らかになり、それらの総体が、日本人のライフ・スタイルを形作っていることが理解できる。」といって、衣・食・住・家庭・教育・労働・消費・余暇・交際など、生活の9つの側面を取り上げている。(『日本人の生活文化辞典』)

われわれの暮らしは、現象的には、南氏があげている事項より、もっと多様な要素を含まれているようにみえる。加えられる要素はどんなものか、それらの要素の相関関係について、後で、文化の複雑系モデルの項で考える。
まず、文化という言葉がどういう風に使われているかと考えて見ると、それは文化人、文化住宅、文化包丁、文化教室などの組み合わせで使われていて、文化人は俳優、芸能人、作家、などの意味で、文化教室となると、お茶、お花、英会話などたいへんな種類と数のクラスがあり、文化がそのような活動を含むことが分かる。

文化人は、その道に一生を掛けて、そのひとの道に精進し、極めてひととの感が強い。それで社会はその人たちが成し遂げたものを尊敬し、文化の日には、文化勲章を授与されて、その人の名誉をたたえる。その道50年、60年の人たちである。従来の文化論では、これらの人たちが、研究対象として扱われてきた。いわゆる、「ハイ・カルチャー」=高級文化として、文化を捉える視点がある。

それから、明治時代以来、近代的あるいは現代的な生活の在り方が文化的というようにも考えられてきた。その中身はハイカラな服装、洋食、文化住宅、文化包丁などの表現になる。

少し具体的に見てみよう。例えば、すきやきなどの肉を使った料理が「文明開花」と結びつけられ、以後洋食は、各種の肉料理、パン、ミルク、そして、今日的には、ハンバーガーなどがその先端になるのだろう。しかし、空腹をおぼえて、腹が減るというのは生理現象で誰でも経験するのだが、その時、その人がベーコンと目玉焼きではなく、うどんが食べたいなと思うと考えてみてください。うどんが食べたいという反応は、その食べ物を食べて育ったそしていつも身近にあったという事実に発している。こういう関わりで、食べ物は文化を考えるのに大切な項目なのである。

衣装に関しては、日本の老若男女は大体いわゆる洋服を着ている。女性のブラウスとスカート、男性の上着とズボンである。戦後の日本で強くなったのはナイロン・ストッキングと女性といわれる位、ナイロン・ストッキングは女性にとっては、特に働く女性には無くてはならないものになった。反面、民族衣装としての和服(着物)は着用される機会が極端に少なくなっているが、忘れ去られたわけではない。

いまや洋服は日常の衣服の主流になり、その勢いは失せそうもない。先述したナイロン・ストッキングは進化してパンテイストッキングとなり、女性の立ち居振る舞いの意識を変えた。時代も働く女性を求め、衣装と働く行為は深く関わってきたのである。 住居に関しては、明るいダイニング・キチンのある文化住宅が、暗くてじめじめしているというイメージのある古いスタイルの家の進化したものとして、現代的ととらえられた。現実的には、二つのスタイルが同居している。大事な点は、戦後の家族の在り方で、いわゆる核家族化が進み、若い夫婦は自らの絆の根っことして、文化住宅を求めた、また求めることが可能になったということであろう。それは、経済政策として、国家・金融・法制・経済活動が複雑に関わって可能になったのである。

国民の要求に応えて、長期の住宅ローン制度が制定されたお陰で、若いサラリーマン夢に見た一戸建ちの楽しいマイホームを実現した。洗濯機を買い、自動車等を持ち、家庭内労働の省力化、月に一度の外食など、新しい行動パターンが加わり、生活の在り方は変化してきた。そして、今も、変化している。

教育の機会均等は、戦後の民主化政策の大きな柱であった。だれでも教育が受けられるような体制づくりと、経済の高度成長と相まって、人々はより高い教育を求めた。 近代生活は、文化包丁に表されているように、科学技術の生活化とも結びついている。ステンレス製の包丁は錆にくいというのが、きれい、衛生的と価値観と結びついて、商品化された。

日常生活で近代化というと、一番目につくのは、電化ということになろう。テレビ、掃除機、冷蔵庫、電子レンジから、電気ヒゲそりまで、毎日使うものの電化は止まる所を知らない。電化製品の普及は、かくして、生活の合理化、省力化を導き、経済・科学技術振興政策が成功したことを裏付ける。電化製品の中でもテレビは文化についての議論をする時、もっとも重要なものであろう。それは単なるモノとしてではなく、情報の発信源としての機能があるからである。

テレビは日常の暮らしになくてはならないものになった。今や、テレビは各家庭に少なくとも一台あり、性別・年令にもよるが、大体平均して3時間から6時間見ている。また、人気番組の野球のナイトゲーム等は、4000万人になんなんとする人々が見ている。それから、2002年5月中に行われたワールドカップ、サッカーゲーム等は時として国民の半分を超える人たちがみている。(数字は、視聴率から、推測したものである。)

近代的な生活とは、ライフ・スタイルを意味する。戦後の国民生活のなかで、頓に目を引くのが働く女性である。戦後間もなく、女性は政治に参加することを意味する投票権を得た。加えて、戦後の復興経済、それに続く高度成長経済活動と相まって、女性も家の外で働く機会を得た。そのお陰で子供達により高い教育を受けさせられるようになった。働くことは女性達の自立の精神を育てる力にもなった。最近は30代の独身女性が増えているようだ。それは自らの充足を求めてのライフ・スタイルなのだと、一部の女性は自負する。

自由な経済活動と相まって、戦後の教育の強調した民主教育は、個人の大切さという意識を養いまた女性にも門戸を開くことになった。教育を受ける家庭で、女性達は働くことへの感心を高め、またメディアは競って就業の情報を流した。こうして、戦後の女性は自己啓発、独立の精神を育ててきたのである。

 生活の余裕が出来てくると、働くばかりでは、心が満たされないと感じる人たちが増えてきた。その人たちは人格を磨くために、文化教室に通いはじめた。心を磨き、人格を高めるために、各種の文化教室は生け花、お茶から英会話まで、多様な活動を提供している。

  心を磨くだけでなく、体、からだの健康度を高めようと、スポーツで汗をかくことを選んだ人々も多い。

余暇の使い方は、心を磨き、健康を保つためだけでなく、家族の絆を強めるためにも使われた。例えば、一泊の温泉旅行などである。

 心身と人の関わりの豊かな生活を手にするために、男は、一家の大黒柱として精一杯働いて来たことはいうまでもない。一家の総責任者として、大黒柱としての男性のイメージは少々弱くなったかに見えるが、長寿番組「水戸黄門」などに象徴されるように、親爺としての黄門さんは、普通の男の一家の長としての役割を表しているように見える。

人々の生活に直接かかわる経済活動の結果は収入と支出のバランスだろう。収入の数字そのものより、それによって生計をたて、一家で計画を立て、夢を見る。経済活動の重要な側面は、人々の在り方としての計画や夢に関わる所である。

以上のように見てくると、文化は確かに大衆という概念、即ち、不特定多数の人々を巻き込む。そして、日本文化における階級格差が、他の文化に比べて穏やかであることを考えると、上流という概念だけで日本文化を考えるわけにはいかない。そして、われわれの歴史性や民族性を強調して、民俗・民族文化だけを考えるのもより広い総合的視点に足りない。 すなわち、「比較」の視座が求められなければならない。

さらに、その視座は「生活文化」というわれわれの日常の在り方に注目するものでなければならない。なぜなら、ある文化に育ち成長するということは、今まで述べてきたような複雑な過程を経て構築される人間像を意味するからである。その人格は「文化的人格」として抽出されることに注意する。その考え方を構築する過程で、生活の諸項目は個別的と同時に、より機能的に、生態的、総合的に、形成されている、または、されつつある人格の一部として認識されなければならない。

    2 文化研究

 


   第1項でみたように、文化が総合的、かつ非常に複雑な事象を含んでいる。そいうことを別の言葉で言い替えれば、文化は理論であり、説明概念であるということである。人間の在り方を説明する考え方なのである。そして、現象だけを見ていては見えない部分が、この概念に含まれている。

 この見えない部分をどう解釈するかが、文化研究の大事な点になる。人間の生活を総合的に考えるには、多くの場合、不特定多数の人々についての考えと同時に、その不特定多数の人々のイメージが文化の問題を考える人にはある。そして、その人を取り巻く現象は多様・無限に見えるかもしれないが、しかし、その人が何よりも興味をもち、行動の対象とするものは割合限られている。それで、その人が直接かかわる行動対象・価値観を、すなわち、その人の人格に取り込まれた部分を内在文化と呼ぶ。と同時に客観的に、広域に渡って存在する事象・情報の総体を外在文化と考える。左の概念に近い別な言葉は個人とステレオ・タイプに区別した認識だろう。  この見えない部分をどう解釈するかが、文化研究の大事な点になる。人間の生活を総合的に考えるには、多くの場合、不特定多数の人々についての考えと同時に、その不特定多数の人々のイメージが文化の問題を考える人にはある。そのイメージにはいろいろな源があり、本人自信が意識していない場合があるかも知れない。しかし、私のモデルを参考枠組みとして、視座に置けば、資料の収集、分類・整理と解釈がしやすくなるはずである。

アメリカ文化を考える場合、ステレオ・タイプのイメージはこんな項目を含むものになるだろう。環境ということでは、大平原、全体的に乾燥した気候、とうもろこしと小麦、牛(乳牛と肉牛)や綿;家族と生計ということでは、開拓者、農場、牧場、交易所、小売り店、製造会社;そして、社会生活といことでは、家庭、学校、教会、各種の組み合い:誕生会、各種レッスン、クリスマス等の祝祭;国家ム民主主義、科学技術の振興、州政府、ハイウエイ、議会制度、連邦制度、軍事力;世界ム核管理、民主主義の擁護と推進;霊性の認識ム命、宇宙、キリスト教の神である。

これらの現象を解釈する作業では、個人の尊厳、自由、平等、対決(競争)、偏見、楽天主義、民主主義、合理精神、技術、肯定的物質主義、ファーストフード、TVコマーシャル、ハリウッド映画などなどが含まれるだろう。

日本文化に関してのステレオ・タイプのイメージは以下のようなものになるだろう。環境ということでは、湿気が多い、山がち、短い河、水田、米、魚、さくら;家族と生計では、サラリーマン、農業、エンジニアー、小売店、共働き、単身赴任;社会生活では家庭、町内会、学校、お寺や神社、正月などの祝祭、会社、鉄道、高速道路、組合;国家としては、選挙、議会制度、なれ合い、政治と金、民主主義;世界の中では、先進国、科学技術、仏教的・神道的世界観などなどである。

 文化の文脈でこれらの現象を解釈する。価値観や意味は人が動く、所属することに隠されている。人間と自然の調和を考える(人間が優先なのか或いは、対決の回避なのか)、能力主義、年功序列、直感主義、夢の内容などが重要な視点になるだろう。これらの価値観がふつうの人々の行動パターンの中にいかに有機的に関連しているかを読み取るのが、文化研究の重要な点になる。

 人の在り様を生活との関連で、すなわち、生活文化考えるのはどうしてか。理由の主なものはまず、人間の経験の総体として文化を考えるからだ。そして、人間の時間は、基本的に今の時、現時点の連続としてあり、その時を中心に経過する。にもかかわらず、人は歴史的産物でもある。その「人」には不特定多数の人々が含まれる。そしてその人々の属性を区別することによって、エリート・カルチャーとか、ポピュラー・カルチャーとかの区別が出てくる。

  ここで、改めて人間の在り方について考えてみると、人間はホモ・サピエンスとして、この地上における唯一の生命体ではない。人は地球上の特定の環境に育つことによって、その土地の動物相、植物相、食物連鎖、人間関係の影響をその成長過程で受ける。その影響を人格における価値観との関わりでいうと、五感による判断力が評価の基準にある。別な言い方をすれば、大脳生理と知性は不可分なのである。そういう人間のあり方についての観察を私は「文化の複雑系モデル」としてまとめている。そして、人間は家族を中心に育ち、「孤島」としてではなく、ある共同体で育った人は共通の行動パターンを持つ。そのパターンを、クラックホーンは「精神的設計図」と呼ぶ。

     以上のように見てくると、文化は確かに大衆という概念、即ち、不特定多数の人々を巻き込む。そして、日本文化における階級格差が、他の文化に比べて穏やかであることを考えると、上流という概念だけで日本文化を考えるわけにはいかない。そして、われわれの歴史性や民族性を強調して、民俗・民族文化だけを考えるのも総合的視点に足りない。『比較生活文化学』は、さらに、このような複雑な過程を経て構築される人間像が文化的人格として抽出されることに注意する。その考え方を構築する過程で、生活の諸項目は個別的と同時に、より機能的に、生態的、総合的に、形成されている、または、されつつある人格の一部として認識されなければならない。 

                         3 複雑系モデル


以上のような、人間の在り方に関する観察を、私は「文化の複雑系モデル」として纏めてみた。

それでは、複雑系モデルというものはどんなものかについて、考えてみよう。このモデルは、文化を考えるにあたって、文化は人間が関わる事象なので、我々の存在に基本的な構造についてのものである。

 人間は、地球上における諸々の物体や事象と分離された存在ではなく、われわれは、ホモ・サピエンスとして、その他の物や現象と有機的な関係を持つ生態系の一部なのである。我々は地球上の特定の環境に育ち、育つ過程で、周囲の環境の動物相、植物相、食物連鎖、人間関係について身体を通して学ぶ。

産まれ落ちてから、母文化で大きくなり、生き延びる事が出来るに必要な事柄を、両親から学い始める。理性(ここでは概念化できる能力という意味で使う)は、組織教育の場で適切に発展させられる。 他方では、主に母と子の関係の中で、情緒的な価値観を身につける。 そうして育った人は、自分と関わる状況で求められる適切な理性的で情緒的な価値観を集約する。その人は理性的なものと情緒的なものとを調和させた判断力をもつ存在となる。筆者は、そういう過程を経て、理性的かつ情緒的な価値観を内在化させた人を文化的人格と呼ぶ。

文化的人格は次のような要素を共有する。すなわち、

@ 子供として育てられること

A 性

B 年令

C 家族

D 生計をたてるための職業

E 学校教育

F 地域社会

G 国家

H 世界

I 霊性

である。これら、10の側面は、人格の属性としての国籍、民族的背景と信仰を超えて、いかなる人も共有する。

この共有するという認識が、文化研究の新しい視点を提供する事になる。制限された視点から、限定されたテーマについて考える従来の議論と異なる方向を提示することになる。すなわち、この新しい視点は人間とその状況を生態的に捉える。別な言い方をすれば、人間を複雑系モデルの見方によって、その諸要素とそれに関わる理性的なまた情緒的な価値観から考える。成長しながら学んだ知性と生理的な感覚は文化的人格の中身であり、切り離せないものである。

文化について議論する多くの人は、人はホモ・サピエンスとして少なくとも10の要素を共有していると認識していない。 むしろ、人は差異を強調する。多様性は有機的、生態系としての文化の視点から詳説されなければならない。意識の枠を地球的に拡大する過程で、人はヒトとして多数の要素を共有するという自覚は、未来のためにより良い解決策を生み出す知恵となるだろう。

まとめ

研究の方法の基本として、以下の視座と方法が不可欠なものとなる。 (1) 人間をホモサピエンスとして認識する。更に、文化的人格が持つ共通項、類似点としての10の機能について考察する。

(2) テーマに関する資料の収集・検討・評価
@ 印刷メデイア
  A 映像メデイア
  B 現地調査で得た客観的・感覚的認識

(3) フィールド・ワーク(現地調査・資料の収集、専門家との情報交換、面接等)

(4) 収集した情報と国内資料の比較検討

(5) 総括:テーマの持つ
@ 歴史性
A 相似性
B 異なる部分の認識
C 特定あるいは不特定の人々の関わり

 以上が私の提示する、生活文化は人々の日常の暮らしの有り様ととらえ、その有り様を研究領域と考え、その対象について、総合的に、有機的に研究する仕方の概要である。

『文化の未来学』(白馬社)より