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カフカについてまだ語る余地があるとすれば、何でもいい、何か細かいことを厳密に調査してこそである、と私は勝手に決めている。柄にもなく「厳密」な「調査」などと。
「映像研究」なるものに携わっていつのころからか私は、妙に、映画のドアにもこだわっている(とにかく映画に関してはじつにいろいろなものにこだわっている)。一方に長い付合いのカフカ文学があり、他方に「映像研究」があって、両者はドアでも接する。というわけでカフカの作品の或るドアを扱いつつ、カフカ文学と映像について少し考えてみたい。ただしここで映像資料として用いるのは「映画化」されたカフカものではなく、一見およそ無関係なレオ・マッケリー『新婚道中記』の終わりの部分である。
ドアというものはほんらい内側に開かなくてはならない、外側に開くのは刑務所のそれである(囚人を外から閉じ込めて施錠する)、という基本的なことをまずことわっておく。さて『新婚道中記』は「超オシャレ」な軽妙喜劇映画「スクリューボール・コメディ」である。
倦怠期ということなのか、もう離婚しようということになってしまっているカップルが、旅先で親戚の家に泊まる。二人は隣り合わせの部屋に別々に寝ることになるのだが、二つの部屋の間のドアの建て付けが悪くて(なんという目立ちたがりのドア!)ガタガタ音を立てる。夫はこの音に刺激されて、妻の部屋に入ろうとする。ここで重要なのは、このドアがどちらに開くかである。レディに優先権を譲るルールからして、妻にとっての内開きでなければならない。そして妻の方に開くからこそ、妻の部屋に居る猫がドアを押し返すということが可能になる。
なぜまたこんな猫が居るのだ! 妻が意図的に「猫の手」を借りたわけではないのだが、この猫がまさに曲者である。内開きがいかに大切かということを教えてくれているのだから。もしドアが夫の方に開いたらこの猫の出番はない。さて妻の部屋に入った夫は、ガタガタ音を立て続けているドアを固定しようと椅子を当てる。するとそれはもう自分の部屋に戻れないという口実になってしまう。椅子はバリケードの役を演じ、二人は立て籠る同志となる。どうやら二人はめでたくもとのさやにおさまるのであろう。見事なドアである。
さて、カフカのドアを見よう。ドアをめぐる攻防は、カフカ文学が自家薬籠中の物としており、その際ドアが内開きなのか外開きなのかにまで注意が及ぶ。家のドアを挑発的にバタンと閉めて(zuschlagen)決然と家を後にする人物の話(『突然の散歩』)のドアは外開きなのだろうな、などと思い浮かべながら私は読むが、ここではまだ半分疑っている。それが確信に変わるのは、『変身』のドアによってである。変わり果てた息子を父親が部屋へと追い払う(収監する)とき、そのドアはまぎれもなくあの刑務所のものである。
「そのとき父はグレーゴルに、うしろからほんとうに効き目のある強い一突きを加えた。それでグレーゴルは血だらけになりながら、部屋のなかへとふっ飛んだ。ドアは杖でバタンと閉められた(zugeschlagen)」。この「バタンと閉め」られるドアがグレーゴルにとって外開きであることを、「杖」の存在が明らかにする。この杖はじつに『新婚道中記』の猫の手と似ているではないか。相手をドアの向こうへ押し込むという運動を、印象的に可視化する。つまり読者がこの杖をきちんと表象すると、『変身』という作品が求めている映像的な冷徹さの水準に出会うということだ。
「カフカと映画」という研究テーマは、一見実りが多そうで、じつはそれほどでもない。相互に無関係のものを比較してしまいがちなのだ。カフカ文学にあってカフカ映画にないものすなわち「映画化」で失われるものをいろいろ数え上げたところで、ほとんど意味がない。そこでドアという些細なものこそが重要な手がかりになる。が、ドアという材料でなら安心して文学と映画を互換的につき合わせることができる、というのでもない。たとえば映画におけるドアの通り抜けは内/外二つのショットのモンタージュでなされるのが基本文法であり、ワンショットでカメラがドアを通り抜けることは許されない(それは報道のカメラである)が、もとよりこういう話は文学と何の関係もない。
因みに、ウェルズの『審判』の動く長回しカメラが、ワンショットで乱暴に、逮捕時に主人公の住居のいくつかの開いたドアを通り抜けるとき、ドアの防御機能の解体(つまり個人というものの終焉)が鮮やかに表出する。このドアの効果がまさしく「カフカ的」であるように見えても、これは徹底的に映画表現に属すこと(ウェルズはモンタージュの制度に揺さぶりをかける)で、カフカの原作のドアはこのとき何の関係もない。「厳密」な「調査」はなかなかたいへんだ。
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