裸の眼?

平塚 徹京都産業大学 外国語学部

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 メガネやコンタクトをしないでものを見るときの目を「裸眼」、つまり「はだかの眼」と言います。この言い方は、メガネ等をしていない状態を「はだか」にたとえているわけですが、日本語で考えると、「はだかの眼」というのは、少し不自然なように思えます。なぜ、このような言い方をするのでしょうか。

 おそらく、これは、西洋語の翻訳であろうと思われます。例えば、英語では「裸眼」のことを naked eye と言います。更に、「裸眼視力」のことは、naked vision と言います。しかしながら、それでも「はだかの眼」という言い方は、少し不思議です。服を着ていないことと、メガネ等をしていないことでは、違うことのようにも思えます。

 ところが、他の西洋語で考えると、事情は少し変わってきます。「裸眼で」という場合、フランス語では à l'oeil nu と言います。ここで使われている形容詞は、確かに「はだかの」とも訳せるのですが、必ずしも「はだか」のことを言うわけではありません。例えば、pieds nus と言うと「はだし」ですし、tête nue というと「帽子をかぶっていない頭」ですし、mains nues というと「素手」ということになります。つまり、必ずしも体が衣服に覆われていない状態だけでなく、体の一部に何も着用せずに、その部分がむき出しになっている状態を言うのです。このような用法を見れば、メガネ等をしていない目のことを、 à l'oeil nu と言うのは自然なことです。

 ドイツ語では、「裸眼で」は、mit blossem Auge とか mit nacktem Auge と言いますが、ここで使われている形容詞 bloss や nackt もフランス語の nu と同じように使います。mit blossen Füssen は「はだしで」ですし、mit blossem Kopf は「無帽で」ですし、mit blossen Händen は「素手で」です。ですから、mit blossem Auge という言い方も納得がいくわけです。

 岩波書店から出ている「ギリシア・ラテン引用語辞典」には、nudis oculis という表現が載っていて、「裸の眼をもつて」という訳が付いていますが、これも「裸眼で」という意味だと思われます。メガネが作られたのは後代のことなので、この表現も後に作られたものだと想像されますが、この場合の nudus という形容詞も、「はだかの」という意味だと言うよりは、「何も着用していない、むき出しの」という意味だと言えそうです。

 要するに、「裸眼」という表現は、もともとは「はだかの眼」ということではなくて、「何も着用していない、むき出しの眼」という意味の表現だったと思われます。

 ここで問題になるのは英語です。と言うのも、英語の naked は、「はだかの」という意味ですが、「体の一部に何も着用していない、むき出しの」という場合には、むしろ bare という形容詞を使うからです。例えば、「はだしで」では with bare feet だし、「無帽で」は with bare head だし、「素手で」は with bare hands です。ですから、本当だったら、「裸眼」は、bare eye となりそうなのですが、「ジーニアス和英辞典」で「裸眼」を引くと、see with the naked[×bare] eye「裸眼で見る」とわざわざ bare は使わないことを明示しています。恐らく、英語の場合には、フランス語の à l'oeil nu 等を直訳したのではないかと想像されます。

 そして、日本語の「裸眼」も、本来、「何も着用せず、むき出しの」という意味の表現だったものを、「はだかの」と理解してできた訳語なのでしょう。


©平塚徹(京都産業大学 外国語学部)

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