「眼底」は眼の底か?

平塚 徹(京都産業大学)


 皆さんは、「眼底」という言葉について不思議に思ったことはないでしょうか。「眼底出血」や「眼底検査」の「眼底」です。これは、眼球の奥の部分を指しています。しかし、「底」という字は、本来、物の下の部分を指すはずです。これは矛盾しています。なぜなら、眼底は、眼球の下の部分ではないからです。なぜ、眼底を指すのに、「底」という字を使っているのでしょうか。

 実は、解剖学において、下の部分ではないのに「底」という字が使われている用語は、「眼底」だけではありません。例えば、「子宮底」というのは、子宮の下どころか、一番上の部分を指しています。また、胃は、食道からの入口にあたる噴門よりも上に張り出しているのですが、この部分は、胃の一番上にあるにもかかわらず、「胃底」と呼ぶのです。なぜ、解剖学用語においては、一番下でない部分に「底」という字を使うのでしょうか。

 解剖学用語はもともとラテン語が使われていますから、この問題を考えるにも、ラテン語で考えてみましょう。上に出てきた用語は、ラテン語では以下のようにいいます。

 いずれも、fundus という語が使われているのですが、これは、もともと「底」という意味です。それで、日本語に訳す際に、「底」という字をあてたのだと考えられます。しかしながら、これらの解剖学用語において、fundus は本当に「底」という意味で使われているのでしょうか。

 実際に、これらの解剖学用語を作ったのは、古典ラテン語の話者ではなく、近代語の話者だっただろうと想像されます。そこで、この fundus というラテン語に相当する、フランス語 fond、イタリア語 fondo、スペイン語 fondo を調べてみると、「底」以外に、「奥」という意味があることが分かります。これなら、「眼球」・「子宮底」・「胃底」の意味と矛盾しません。「眼球」は瞳孔から見て奥の部分ですし、「子宮底」も子宮の開口部から見ると奥の部分です。「胃底」も、胃の上の奥です。つまり、これらの解剖学用語においては、fundus は、「底」という意味ではなく、「奥」という意味で使われていたのです。fundus のこの意味が分かっていれば、「眼底」等の訳語はできなかったかもしれません。