誕生を表す動詞の特殊性

平塚 徹(京都産業大学)


 吉野弘の「I was born」というよく知られた詩があります。この詩の中で,少年だった詩人は,あることに気が付きます。

 少年の思いは飛躍しやすい。その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
−−やっぱり I was born なんだね−−
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
−−I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね。−−

 英語の I was born. は,受身形だというのです。確かに,「be + bear の過去分詞」というパターンですから,受身形に見えます。しかし,これは,本当に典型的な受身形かというと,そうではありません。例えば,この表現には,動作主を表す by 句を補えないのです。つまり,(1) のようには言えますが,(2) のようには言えないのです。

(1) This child was born on Memorial Day.
(2) *This child was born by my sister on Memorial Day.
[Emonds, J. E. 著 A Transformational Approach to English Syntax による]

 他方,もっと驚くべきことがあります。日本語の「生まれる」という自動詞は,形態論的には,他動詞「生む」の受身形だと解釈することもできるのです。「生む」は五段活用の動詞ですから,受身の助動詞「れる・られる」を付けると,未然形「生ま」+助動詞「れる」で,「生まれる」になるはずです。しかし,私たちの直感では,「生まれる」は,「生む」の受身形だとは感じられません。この直感は,「生まれる」が動作主を表す句を補えないことからも裏付けられます。受身形は,(3) のように動作主を表す「〜に/〜よって」を付けることができますが,「生まれる」の場合は不自然になります。

(3) その子供は花子{に/によって}育てられた。
(4) その子供は花子{??に/*によって}生まれた。

確かに,「花子に子供が生まれた」とは言えますが,この「花子に」が受身の動作主だとは感じられません。このため,「生まれる」は,形態論的には受身形と解釈できるにもかかわらず,能動の自動詞という扱いを受けていると思われます。

 まとめると,「生まれる」は,形態論的には受身形のようにも見えますが,本当の受身形ではないということです。正直なところ,「生まれる」が,形態論的には受身形のようにも見えることが,本当に意味のあることなのか,単なる偶然なのかは分かりませんが,ここでは,単なる偶然ではないと仮定して話を進めましょう。

 さて,以上のように考えると,英語の be born も,日本語の「生まれる」も,形態論的には受身形に見えるにもかかわらず,本当の受身ではないということになります。ところが,このような誕生を表す動詞の特殊性は,他の言語でも観察されることなのです。

 ラテン語では,「生まれる」は,nascor と言いますが,これは受動態の形式を持ちながら,能動態の意味を持っている deponent verb と呼ばれる動詞なのです(dponent verb は「形式所相動詞」等と訳されますが定訳はありません)。また,ギリシア語でも,誕生を表す動詞γιγνομαι「生まれる・なる」は,やはり,deponent verb なのです。

 このように,誕生を表す動詞は,態に関して特殊な性質を示すのです。これは,誕生というものが,完全な能動とも,完全な受動とも認識しがたいことを反映しているのではないかと思われます。