[創刊の辞]福音主義神学が聖書の釈義に根ざしたものでなければならないということは、当然のことです。 しかし、この当然のことが必ずしも「当然のこと」として行なわれているとは言えません。旧約聖書の「釈義」が何を意味するのか、そのことを具体的に知るために、ヘブル語テキストに直接当たり、苦闘しながら学び続けていく作業を積み上げていくことが必要であると思います。 ここに、年に数回、泊まりがけで一つの詩篇を共に学んできたことをまとめてささやかな研究誌を創刊することにしました。 夏に一つの詩篇を読み合わせた後、各自が興味のあるテーマを選び、年末の研究会にプロポーザルを持ち寄る。 それらを互いに検討し、予備的な論文を3月下旬の研究会で批評し合い、夏の研究会までに論文としてまとめる。 そして、秋に最終原稿を提出する、という手順で進めてきました。 各自が担当した論文は、このように、共同研究の結実でありますが、最終的な責任は執筆者一人一人にあります。 読者諸氏の率直なるご批判と励ましとを頂けますならば幸いです。
[編集後記]よりここに第10号・記念号を出版することが出来,感慨ひとしおです。 十年間の歩みを振り返り,ここまで導かれてきたことをまず主に感謝するものです。 本号は,三つの点で今までとは違っています。 その一は,執筆者の数と論文の分量がこれまでないほど豊かになったことです。 その二は,10年の節目に,新約の研究者を迎えて「聖書釈義研究会」として新しい出発をしたことです。 その三。今までの釈義中心の論文だけでなく,「文書資料説」の諸問題を批判的に取り扱ったことです。 しばらく前までは,JEDP学説によらなければ学問的でないとさえ言われてきた「定説」が,現在大きく崩れています。 昨年のOsloでの国際旧約学会 (IOSOT) では,"J"とか"E" という名称を耳にすることがほとんどなかったくらいでした。 その代わり,インターテクスチュアリティの問題を含む「ポストモダン」の解釈学が論議の対象になっていました。 批評学も解釈学も,聖書本文の釈義の積み上げがないならば一過性の現象で終ってしまいます。 釈義にしっかり根差した聖書神学の形成を目指して,次の十年に向かう研究会でありたく願います。 皆様の,ご支援とご加祷を心よりお願いいたします。