書評: 学区制廃止と学校における階層混合

Agnès van Zanten et Jean-Pierre Obin : La carte scolaire,
collection « Que sais-je » no.3820, Presse Universitaire de France, 2008.



 学区制度(carte scolaire)の問題はフランスで、現在、熱い論争の的になっている。メリトクラシー原理に基づく学歴主義が、近年の雇用情勢を反映して、雇用の現場でますます決定的な役割を果たすフランス社会では、「教育」への関心が、時に過剰なまでにかき立てられることがある。学区制度の問題は、教育における平等と機会均等の原則が、「選択の自由」というもう一つの原則と衝突する局面として捉えられる一方、恵まれた階層による「選択の自由」の実践が、学校間の格差を増大させ、学校や居住空間における階層的・人種的隔離状況を助長して社会的結束を損なったという批判もなされる。実際、現行の学区制度は、すべての市民が「指定された学校に通う」という義務の側面でも、「生徒の社会階層の混合を図る」という理念の側面でも、特に大都市部において、もはや機能しなくなっている。一方、学区制廃止を選挙公約としたサルコジ大統領のもと、政府は2010年の制度廃止を政治日程としており、学区制度はあらためて多くの言説の対象となりつつある。本書の出版は、まさに時宜を得たものであり、それは、出版直後に代表的な日刊紙があいついで著者インタビューや書評を掲載したことからも見てとれる。

 ク・セジュ文庫の一冊として刊行された本書は、フランスにおける学区制について、制度導入時の目的や歴史から説き起こし(Ⅰ章)、2010年の学区制廃止を視野に入れつつ、制度の現状と問題点を多角的かつ簡潔に叙述している。小冊子という制約にもかかわらず、総合的でバランスの取れた目配りを保っていることは、たとえば学区制廃止に関する政府の見解ばかりでなく、それぞれ複数ある校長組合・教員組合・保護者連合の主張に個別に注意を払っている(Ⅱ章)点にも見て取れる。また、学区制度と階層混合との関係、すなわち特定住民(生徒)の社会的・教育的隔離状況に学校選択がどうかかわるかという問題にも大きな関心を寄せている(Ⅲ-Ⅳ章)。そういう意味で、本書はフランスの学区制に関して導入的な情報を得るには格好の一冊とも言える。しかし、その一方、個々の論点の展開が不十分で、ページによって論旨が矛盾するような印象を与えて読者の混乱を招きかねないこともある。それは単にスペースの制約ばかりが原因ではないと思われるが、この点については後述する。

 生徒数や学校施設の合理的な調整を図ることを目的とした「大革命以来はじめての措置」である学区制度は、国民教育省が他の行政機関から独立して権限を発揮できる領域を生み出し、教育における国家の統一管理の始まりを意味した。しかしながら、個々の家庭に対しては強制として働いたこの制度は、伝統的なリセの教育に固執する特権階級からの反発を受け、当初から「特別許可」による「選択の自由」の余地を残していた。80年代に一連の緩和措置が施行され、また、私立校が学区制度の外に置かれていたために、学区外の学校に通う生徒は増加し、学区制をめぐる一般の関心は、「特別許可」の扱いに集中してきた。特別許可の処理がしばしば場当たり的・官僚的で、社会的配慮を欠き、親が教員である場合の非公式の優遇措置や、定員の「校長枠」という不透明な抜け道が批判されてきた。著者はこうした状況をうけて、サルコジ政権の2007年度における学区制緩和措置を積極的に評価する。この措置は、2010年における制度廃止に向けて、「定員の余地のある限り」すべての「特別許可申請」を認める方針を打ち出したものだが、申請の承認について初めて「優先順位」を明示し、その上位に経済的理由による「奨学生」を置いているからである。

 こうした評価からもわかるように、著者は大筋では学区制の廃止を支持し、それに代わってより現実的かつ効率的に「階層混合」を実現する制度を模索しているようにみえる。著者は、学校への生徒の配置に関して、「完全な強制」(日本など)―日本における学校選択制とその新たな見直しという状況は著者には伝わっていないらしい―、「完全な自由選択」(イギリスなど)との間に、「例外を認める強制」(フランスなど)と「制限つきの自由選択」(スウェーデンなど)というモデルを国際的な調査から引き出し、「完全な自由選択」と無原則な「例外を認める強制」が、ともに恵まれない生徒の隔離状況を助長する欠点を持つとし(Ⅳ章‐Ⅱ・Ⅲ)、制度設計のポイントは、市民の責任ある合意に基づく効率的な規制をどのように導入するかにかかっていると主張している(115,カッコ内はページ、以下同様)2010年の学区制廃止を念頭に置けば、これは「制限つきの自由選択libre choix régulé」のもとで、合理的な規制を導入するという方向性を示唆したものといえる。

 しかし、残念ながら、著者はこの方向にそった具体案を提言していない。合理的・効率的な規制を市民の合意に基づいて導入するという正当な制度設計思想が、そのせいで空疎なものに響く。具体策なしでは、「完全な自由選択」制や現行の「例外を認める強制」とたいして異なったものにならないのではないか。また、市民の責任ある合意に基づく規制などというものが、サルコジ政権の方針や「家庭の動向」と適合するのだろうか。本書でも学区制の廃止について「2010年のおける学校施設の完全な自由選択に向けた « vers la liberté totale de choix de l’établissement en 2010» (38)」方策である、という言い方がなされているではないか...。

 正当な原則の提示と具体策の欠如という本書の弱点を最もよく示しているのが、私立学校の問題である。私立校が現行の学区制に組み込まれていないことが、学区の学校を回避する行動を容易にし(37)、私立と公立の競争関係が学校間競争を刺激して公立の学校間格差を広げ(85)、公立と私立を横断した政策がフランスには欠けている(104)、といった点が指摘され、結論として、生徒の配置に関する規制には私立をも組み込むことの重要性が強調される(118)。しかしながら、同じ結論部の1ページ先から始まる今後の施策の提案には、私立学校に関係するものはまったく登場しない。

 似たような主張の不統一が、生徒の流出が著しい学校の「閉鎖」に関しても認められる。Ⅱ・Ⅳ章(47,96)と結論(121)では、こうした措置が実行されるべきものとして推奨される一方、Ⅳ章後半(106-107)では、消費者の選択による淘汰が働いて不人気・非効率の施設が閉鎖されるという市場原理に疑問が提出されている。「奨学生」についても同様である。特別許可承認の「社会的基準」として、奨学生に優先権を与えられたことを高く評価し、今後の方策の柱の一つとして大きく取り上げる(39,120)一方で、奨学生に与えらた特別許可を過大評価することに疑義が提出され(94)、また、奨学生優遇策が、生徒流出傾向がある学校から「できる子」を離れさせ、そういう学校の荒廃を進行させたという批判(100)もみられる。

 こうした不統一と、原則と現実的政策の分離は、おそらく著者二人の分野と傾向の違いを反映している。文体や参照項目からして、Ⅰ・Ⅱ章・結論後半がObin、Ⅲ・Ⅳ章・結論前半がvan Zantenの手になると思われるが、前者は2007年の学区緩和策に関する政府レポートの筆者であり、後者は郊外の学校のフィールドワークや学校選択の国際比較を専門とする教育社会学の大家である。本書の目的は、一貫した主張を展開することにはない。本書のやや散漫な性格は、学区制廃止という政治的な争点を前にして、著者らがどちらの方面にも受け入れられるよう自らの言説を「規制」したことに由来すると思われる。